本の場:●本の場● 山崎曜 YAMAZAKI YO 手工製本家 メディアとして主役を降りて久しい「本」を、今までとは別の、美や造形として輝かせて、新たな「もの」として存在させたい。

経験から学ぶ

 
おととい、27日は、二ヶ月に一回のNUNO WORKSさんでのワークショップだった。子供達は夏休みの期間なので、「夏休み親子企画」ということで、採集したいろいろを入れる封筒の本を考えた。午前、午後で各10人の枠で、小学生が計4人(自分の子供も含む)で、それぞれお母さんがついてきてくれました。ワークショップ自体はそれほど問題もなく、無事終了。みなさんに感謝です。
手って、子供から大人に向かって、どういうふうに動くようになっていくんだろう、とか、カッターなどの刃物を使って、何かを作ることってどのくらい学校であるんだろう?とかいろいろ考えてしまった。自分の子供の小学校の展示見に行ってるくせに、自分がやってみるまで想像がとどかない・・・・
 
自分の手は小学生の時、どのくらい、またどんな風に動いていたんだろうか。
 
鉄棒で逆上がりができたのが小学5年くらいで、担任の先生に「鈍重」と言われた。「どんじゅう」という響きが、どんぶりとじゅうばこのように重くボディにこたえて、かなりのダメージを食らった・・・・多分、寝るとき泣いた・・・くやしいっていうかままならない自分にいやけがさして。成長のためにはどういう負荷が必要なのか、負荷をかけない方がいいのか、いや、そんな人口的コントロールを考えずに、その担任のように思った通り「鈍重」と口にして、子供が自然に育つのがいいのか。(ま、現実にはそれ以外しょうがなかったろうけど。逆に今はそういった攻撃(?)を受けないで大きくなる子供が問題になっているようにさえ思うし。)
手を動かすことと体を動かすことは、随分違ったことのように区別されていると思う。かれは運動神経が発達してる、彼女は手先が器用、は別のこと。が、よく考えると、手は体のもっとも使用する部分である。運動神経が発達してる手を考える。それは、あこがれの手、だな、自分にとって。
そして手は頭(考えることをする場所)ととてもよく連動する部分。失敗してカッターで手を切ってしまうこと、は、考えるために、どうしても必要な経験だ、と大人の私は思う。現にそうやって今のカッターの切り方になった。だが、子供が失敗から学ぶのには、もうちょっと違う何かが必要か、とも思う。
日本人は手が器用だということになってるけど、これからどうなるのか。「ゆとりの教育」は手の動きにどのような影響を与えたのか。表面的な頭の働きのようには問題にならない、その部分に未来が隠れているように、私は思う。
 
 

2008年7月30日 本の場 |

コメントする




メニュー

アーカイブ