言葉にする
教室の間、随分しゃべる。かなり面白い。3人の生徒さんと私、というのが、レギュラーな状態。うちに来る人たちはとても個性的。こんなことしてる人なんだ、とか、こういうふうに考えるんだ、とか発見がいつもある。
そういう個性的な人たちに選択されてるうちの教室はとてもありがたい、と思っている。
(でも本当は人間全員が個性的で、単にそれを出せるか出せないかって違いだけのような気もする。)
言葉、って何だろう。しゃべるのは、現場で使う言葉。
一方、書き留める、というのもとても大事だと近頃改めて思う。
製本の方法を憶えるのはなかなか一筋縄ではいかない。
なのでメモしてください、って最近言うようになった。
決まった形のものを作る、っていうことをあんまりやらないのがうちの教室。
決まった形のものを作るトレーニングをしても、そのことが使える場面はあまり実際にはない。と、いうか「こんな風なのが作りたいなー」っていうのは売ってないものだし、究極のオーダーでもしない限り、存在しない。しかもオーダーしようとしても、そのヴィジョンが完全に頭の中にあるわけではない。
なので、しゃべったり、手を動かしたりして、自分で探ることになる。探っているうちに方法が見つかってくる。それが一番面白いことなんだと思う。
そういうことを繰り返してきて、私の引き出しも随分増えた。結果として本も出版できた。
教室でやってることっていうのは、製本の方法を憶えることなんだろうけど、もうちょっと高級っていうか、いいこと、のような気もする。つまり、アイデアを練ったり、実際に形にしたりを、考えること。
そこに、言葉がとても関わってくる。
2009年4月27日 本の場 | 個別ページ | コメント(0)
山を歩く
地形図を見る。地理?それとも地学?の専門家なら、自分の今いるところの感じが「わかる」と思う。あるいは、昔のまたぎの人とかならば、別の感じかもしれないけど、やっぱり「わかる」と思う。ひたすら感じ取ろうとする歩き、を繰り返すことで、すこしずつ「わかる」ということに近づけるだろう。科学の専門家なら、言葉による理解が、それの助けとなり、促進するだろう。
でも、感じとろうとしなければ、なんど歩いても、「わかる」には近づかない。普段、駅への道を歩くのは、「ここが地球でどこか」みたいな歩きじゃあない。これじゃ近づかないよね。
まちは表面を覆われ、姿を変えているから、痕跡的なものに注意するのと、傾斜、元の川、みたいなことに注意を払うと、少しは違って感じられるかも。
でも、学生の時よく山にのぼっていたけど、全然そんなとこ見なかった。「わかったら面白いだろうな」というのはあったけど、接近の仕方がわからないまま。
自分の街の地形図を使って、今の建物を取り払って、雑木林なんかを作って、川を元にもどしてみてみる、パソコンでのゲームを夢想した。(これは横道だね・・・・)
2009年4月21日 本の場 | 個別ページ | コメント(0)
ボルネオ行きが迫ってきた
いよいよ、迫ってきました。
先週、ホームステイのホストもやっと決まりました。ずっと、マレーシア語を聞いたり歌ったりしていたのですが、ホストとのメールのやりとりで、ホスト夫妻は家庭では北京語を使ってることが判明。北京語もたくさん聞いてます、が、どうなることやら。
ともかく、違う言葉をしゃべる人の中に、その言葉を勉強しないで(赤ちゃんのように、聞いたり、歌ったり、遊んだり、しただけで)とびこんだら、どうなるの?っていうのを全身で存分に味わって、反応してみたいです。
言葉で論理を組み立てる、その元は、赤ちゃんが言葉を理解する、そこの時点で存在してると思う。なんとなくだけど、言葉と体の関係に興味があるんだな。人間ぽい、その感じに。
2009年4月21日 本の場 | 個別ページ | コメント(0)
糊を説明する言葉
4月から太極拳のあと、気功の授業も始まりました。
それ以前から気功のO先生は、太極拳の動きは、すべて論理と言うのか理屈が有って生まれた、というようなことを言ってました。つまり動きをいくら真似ても理論が分からないと出来ないってことでしょうか?
私は、どちらかというと言葉で言えたって出来なきゃ意味ないよねーって思う方です。
が、武術が極めて人間的なものであるのは間違いない。
人間的っていうのが何かって言うと、言葉にする、と言うかむしろ言葉から始まるってことではないか?(動物は言葉で説明しないし、そうでなくても必要な動きを身につけます)
それでO先生の言い方になる。
私はブログで糊のことを書いて、もしかしたらこういうこと?って思った。糊で紙が貼り付く感じを伝えられない、やるのを見せても、生徒さんがやるのを見ると伝わってないのが分かる。
どんな感じで紙と紙がくっついていくのか、想像力のようなものが必要なんです。その感じを言い表す言葉が必要。
それプラス実際動いてやることと両方ないと「感じ」が掴めない。
どんな感じ?っていう問掛けが大事。そしてそれに答えることが大事。
ああ、それと、糊ってここで言ってしまってるのは、製本に使う糊、って言う意味だけでなく、広く接着剤全般という感じです。
いろいろなタイプのくっつき方があって・・・それは化学の言葉で説明しなければならないのかもしれないけど。20世紀は接着剤の世紀とも言われてるみたいで、本当にいろいろな接着剤が作られたようです。その恩恵にあずかって、私もいろいろの接着剤を使ってます。
なんか拡散してきた。もう少し練りたいです、表現を。
2009年4月20日 本の場 | 個別ページ | コメント(0)
糊は一筋縄ではいきません
製本をやったり、教えたりしていて難しいのは、糊と刷毛。
カッター使いや何かは、説明するとわりにわかっていただけますが、糊は非常に困難です。
「こんな感じ」は使って味わってもらうしかなく、しかも、「どうやって着いているのか」ということについてのなんとなくでも物質的理解というのかそういうのがないと、味わっただけではできない、ってことになります。
基本的な使い方として、木工ボンドとでんぷん糊(ヤマト糊など)を混ぜる使い方をしますが、どういう意味でしょう?と問いかけても多分、答えられる人は少ないのでは。
また、「ボンドに水を混ぜると、早く乾いてしまいます」とか「ゆっくり時間をかけて糊を塗れば作業時間が取れます」とか、なんだか思っているのと逆じゃないという印象を与える言葉かな、と思います。
大概の方が、手早く糊を塗ってしまい、慌てて貼付けようとして、失敗します。
「ゆっくり時間をかけて塗って紙に水分をしみ込ませてください」、と言っても、「たっぷり塗るんですか、薄くですか」と質問を返されてしまい、言ってることの主旨を伝えることの難しさを感じます。
ちなみにでんぷん糊はなかなか乾かない、つまり保湿力があるので、紙をしめらせて柔らかくできます。柔らかくなっている紙は曲げやすいので箱などにそって曲げながら貼るのが容易です(曲げやすいから、粘着力はあんまりなくても大丈夫)
木工用ボンドはでんぷん糊より速く乾き、粘着力があるので、紙を柔らかくしないで、すぐに貼るのに適しています。速く乾くから、広い面積に塗り広げるには素早さが必要。花ぎれなど小さな部分を貼るのに適しています。
混ぜると両方の性質をかねたものとなります。半々だと適度に湿り気を保ち、粘着力も中くらいにあるということになります。
そして上記3パタンのどの場合でも、塗った糊の表面がちょっと乾き気味ぐらいが一番粘着力がある状態。
あと、小学生の時などにヤマト糊、フエキ糊を使っていて、「紙がぼこぼこになっちゃう」というでんぷん糊のイメージがあります。
紙は植物の繊維でできていて、植物の繊維は水を吸ったら膨張するから、起きる現象。
昔の人は障子をはったりしてるから自然にそれを利用してまっすぐにするということをしてました。美大受験の経験者だったら紙をパネルに水張りするから同じ事を理解してる、と思うのですが、なかなか。
糊がいけないんじゃなくて、そういうふうに使ってあげない人がいけないんだ、と言いたくなる場面も多いですけど、それを言ったらあんまり好印象じゃないよな〜と思ってあまり言わないです。私の欠点。(でもあるんですが、相手との関係をどのように処理していくかっていう態度の特徴でもあると思う。相手、っていうのは道具でも素材でももちろん人間でもある・・・・・)
職人は自分の道具を厳選して鍛え抜き、材料を吟味しますよね。
私の態度はそれとかけ離れています。いいかげんな道具を道具に合わせて使いこなし、どんな材料でも、なんとか形にすることが、かっこいいこと、だと思ってます。
2009年4月19日 本の場 | 個別ページ | コメント(3)
やり方を伝えること
このところ、教室での自分が変わってきてるように感じる。
「製本をする人」としての私自身の育ちかたは特徴あるものだと思う。
西武池袋のカルチャーセンターの入門コースで1年習って、フランスで学んだ製本技術者の弟子を2年やった。教えてもらったのは以上。あとは教室をやりながら、注文をうけながら、実地に学んだ。
(はじめのころは、毎週の教室のワンレッスン2時間半をどうやってきりぬけるんだ?とか、はじめての注文の本でタイトルがうまくはいらず泣きそう、とか・・・。そこで「やめちゃお」て方向にならなかったから、本当によかった。そういう状況をなんとかできると、次も自分はなんとかしてくれる、っていう自信ができるんだよね。その一線っていうのはやっぱりあるな、と思う。そしてなんとかしてくれるのは、この文を今書いている意識の「私」ではなくて、全体としての生き物としての「私」なんだ。)
その人にあったやりかた、ってことを考える。
一方で人のやりかたを一度自分の体の中に入れてみることの大切さも、思う。
今思うと、弟子の2年間というのは「人のやりかたを一度自分の体の中に入れてみる」練習だった。疑いをさしはさまず、入れてみる。それはかなり苦しいことだ。疑いをさしはさまず、っていうことがまず苦しい(すでに大人になっていたし)。だって自分の方法とどっちがよりあってる?って考えたらできないことだから。この葛藤に数ヶ月かかったような気がする。
教室ではそれは難しい。が、そういう要素も必要だよ、って近頃思う。自由に作るのが楽しいに決まってるけど、不自由な中でどうできるのか、が、生き物という制限のあるものの中における「本当の自由」ってやつだと思う。そう考えるのもやっぱり何回か枠にはめられる窮屈さを味わっているからかも知れない。
学び方もひとそれぞれ。別に「人のやり方を一度自分の体に入れてみる」ってやらないやりかたもあるだろう。それぞれの学び方に、良い点と欠点があるだろう。
だが、自分のたまたまな運命を、利用してベストを尽くすだけだな。
他人と上下はつけまい。いっつも他人を見て自分と比較してしまうけど。
2009年4月19日 本の場 | 個別ページ | コメント(0)
美篶堂の本
きのう、美篶堂さんから『はじめての手製本』(美術出版社)が送られてきました。美篶堂さん、ありがとうございます。手製本のやり方が載っている技法書なのですが、美篶堂というお店、製本所、の雰囲気をそのまま伝える読み物でもあります。本全体があのギャラリーと人々の気配そのもの。
私は自分の出版記念展をやらせてもらったり、何かとお世話になっている場所です。
本の中では上島松男さんの
「10年、20年ではわからないことがある」
という言葉が、印象に残りました。やってること、やってきたこと、は全然違うのですが、「手製本」というキーワードが縁となって、私は美篶堂さんと出会うことができたと思います。
製本自体はなんとなく習い始めてから20年。松男さんのおっしゃってる意味とは表面的には違うことかもしれないですが、20年では全然まだまだ、わからないことがある、ってやっぱり思います。
2009年4月18日 本の場 | 個別ページ | コメント(2)
撮影
お久しぶりのブログとなってしまいました。
きのうは撮影でした。製本の作業しながら、手順を撮ってもらいました。
和本風な傾向の製本のやり方の本です(たぶん、夏頃に刊行予定)
このところ、ずっとこれのための作例作りなんかをやっていました。
今度の本は書道の先生との共著です。どういう本になるのか、ということは出版社の方針とか、編集の方の考えによるものです。とうぜん、自分が前に出した文化出版局からの2冊とはずいぶん違っています。そこがとても面白いです。
今回は、自分は「料理される素材」の気分。(料理人は編集のWさん、かな?)
どんな料理(本)になるのかなー、と楽しみです。
(まだ、これから連休前に説明などを書くのですが。)