スイッチが切り替わる
いちおう、会社とかに居なくて、一人でやってると、いつも自分で考えて、自分で行動(たいして行動してないけど)している。基本的に、いい感じ?だめな感じ?、オーケー?、やる、やらない?、とか自分に問いかけて、「やるやる〜!」とか「あ、これだめ。やだから、やんない」とか、自分との会話で決めてく。
だけど、温泉宿のように、「いらっしゃいませ、当店では全てお任せいただき、おくつろぎくださ〜い」みたいな状況がくると、あ、ここでは、自分何も考えなくっていいんだ。と、スイッチが切り替わってしまう。
「学校教育の弊害」ってひとのせいにしておいた。
教室のメンバーのデザイナーさん(彼女も一人でやってる)にも共感された。
私の世代は、先生の言う事、いちおう聞いとこう、ってなるような気がする。
その上で、どうなの?っていうことになる。
現実は、それじゃ、遅いのよ。
(学校って、ゲームの中、という感覚。ついつい、ルール違反はあり得なかったり、あったらさばかれるべき、って思ってる。本当はいじめだってあるのにね。)
これいいのかい?ってちょっとでも思ったら、とりあえず、そのことを表明しないと、相手にわかんない。
2009年7月25日 本の場 | 個別ページ | コメント(0)
『ハチはなぜ大量死したのか』ローワン・ジェイコブセン著
知らなかったことがいっぱい。
まず、ミツバチというか、養蜂業の歴史。こんな発見や改良があって、上手に蜂蜜が採れるようになったんだ、ってことに始まって。
それが、加速度的に、大規模農業の、受粉に用いられるようになり、
大量生産、大量消費のただなかに置かれたミツバチの運命は、過酷化の一途をたどる。
受粉マシン、蜜製造マシン、として。
負荷がかかりすぎたミツバチは狂いだす。
この本の主題のCCDとは、ミツバチの群れが巣箱を置き去りにしてどこかへ消えてしまうことを言う。解説で、福岡伸一さんも書いてるとおり、それは狂牛病を思わせる。本来、草食の牛に、成長を早めたり、乳を沢山ださせるために、穀物と、もっとも安価で効率的なタンパク質である肉骨粉(同じ牛の病死のものとか肉をとったのこりの骨)を与え、と、経済効率から言って「正しい」ことを、追求していった、その結果、狂牛病という人間に及ぶ病が誕生した。
自然は長い時間をかけて、すべての関係の中で、生き物のさまざまな「生き方」を作りだしてきた。人間の「科学的」思考は、部分を見るのに適している。明快である。「原因は?」と考える。その「解決」が発見される。すっきり。
美しい、その秩序に、感動する。すごく感動する。
しかし、そうなのか?
いや、そうなのだ。人間の頭の文脈の上では。
ノーベル賞をとる科学の発見も、オリンピックで世界最速の男も、その文脈の上で「同じように美しい」ような気がしてならない。
いや。
話はもどって、アーモンドという作物がカリフォルニア?フロリダ?で近年のゴールドラッシュ的作物で、それは2月に花が咲き、その時期受粉できるための土着の昆虫がいないので、ミツバチの働きは非常に重宝されるのだが、本当はミツバチもまだ活動する時期ではないのを、コーシロップを与えてもう活動時期だよ、と勘違いさせ、労働させる。
そんなこと、全然知らなかった。
アーモンドが、少し前から、両親の食卓の横のタッパーの常備品であって、私もよくちょうだいしていて、何かに効くって言っていたな。っていうのはそういう経済の理屈だったんだな。前はずいぶん高級なイメージだったのが、近頃はそうでないのは。
先日いった、キャンプ場の夜の明かりに、虫が少ない。
虫が嫌いな人が多いから、よいことだろう。
しかし、私の小学生から中学生の9年間のうちに、夜の明かりに来る蛾をはじめとする昆虫が随分と減ったのを思い出す。開発が進んだからだ、寂しいな、と、昆虫好き(特に蛾)の私は思ったのを思い出す。が、問題は多分もっと深いところで、深刻に進行しているのだ。
2009年7月23日 本の場 | 個別ページ | コメント(0)
『薄氷の踏み方』
まだ、読んでいる途中。甲野善紀さんと名越康文さんとの対談。
軽くて楽しい口調(対談だから当然か)で、本質を語ってる。
面白くて、止まらなくなる。
ま、だいたい、一つの思考に共鳴すると、しばらくはそうなる。村上春樹さんのとき、内田樹さんのとき。何冊続けて読んでも面白い状態。
自分のしてる読書はなんなのだろうね。
仕事をほっぽって、ゲームとかするのと同じだね。
せっかく頼んでくれてる仕事になかなか取りかかれないまま。
2009年7月16日 本の場 | 個別ページ | コメント(0)
このところ続けざまに
甲野善紀さん関係の本を読んだ。最初の著書『裏の体育、表の体育』、『剣の精神誌』、田中聡さんがまとめた『身体から革命を起こす』、養老孟司さんとの対談『自分の頭と身体で考える』、多田容子さんとの対談『武術の創造力』、田中聡さんと中島章夫さんの共著で甲野さんの術へのアプローチ方法を書いた『技アリの身体になる』。そして、DVD『甲野善紀の身体操法』。
書くこと、や、書いてあるのを読む、ことについて考える。「たとえ」は、わかったような気にさせるからよい、と同時に誤解というか「そうじゃない腑に落ち方」をしてしまう、悪いところもある、などと書いてあった気がする。
とても説明がうまい。
江戸時代に洋式の時計をばらしてみて、和時計を作る、とか、ウィリアムモリスのパーチメント装を写真をみただけで(こうなってるのかな〜、と)作る、などなど。言葉で書いてあることって、そういう感じがする。
身体を使うこと、って実際にやってみなければわからないけど、残された言葉をうけとって意味を身体でさぐりながら、作業していくことっていうのがどうしても必要。
文字になった言葉っていうのも、そうやってもう一度身体にもどして解釈していくと、とても大事なものなんだな、って思う。
身体にもどしてあげれば、「言えないことを表現した」文字になった言葉が生きて来る。
「本」を大事にできそうな気がした。
2009年7月15日 本の場 | 個別ページ | コメント(3)
たのまれてる仕事をできない
できないから、返す、ってことができないのは、いけない。そう思っても、別にできないわけではない。
途中まで行ってるので、そこから取りかかればできそうなのに、取りかかれない。
それだけのこと。
とりかかればいいだけ。
くそっ。
2009年7月14日 本の場 | 個別ページ | コメント(0)
『身体から革命を起こす』甲野善紀/田中聡
面白かった。前にも何冊か読んでいる、古武術の人の本。これは、甲野さんのやってる研究に縁をもった様々の分野の人への聞き書きというような体裁をとっている。そもそも取材で縁をもった田中さんが書いている。身体感覚、は言葉化できないのだが、それを言ったらあらゆることが言葉化できないということにもなるわけで、甲野さんがこんなに表舞台にでてきてるのも「言葉化」する能力がとても高いんだと思う。田中さんという非常に甲野さんに興味をもっている書き手から外側から見ることで、別角度から読める「甲野さんのやってること」になってる。すぐに動いてみたくなる。