本の場:●本の場● 山崎曜 YAMAZAKI YO 手工製本家 メディアとして主役を降りて久しい「本」を、今までとは別の、美や造形として輝かせて、新たな「もの」として存在させたい。

やっと来た本、今週やったこと


今週は年賀状を片付け、図録(2010年の教室展の図録です。間違いじゃなくて2010年です。来年売ります。二年越しの事後処理。)の完成形がようやく見えた。遅いながらも少しずつ進んでいる。
こんな感じ。
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それから、11月頭に出ていた「手で作る本」の台湾版「書・本作 山崎曜的製本書」がようやく手元に送られてきた。
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左が台湾版。いろいろ違うところがあって面白い。ネットの画像で見ていてはわからなかったが、まず判型。もとの本はB5変形(?)の220×150ミリ。台湾版は230×170。左右の比率が変わるので写真のレイアウトが苦しいところが何カ所か。
表紙はマットなppになっていて、写真と字がバーコ印刷でキラっと盛り上がってる。本文の紙も上質紙で写真は黄色がかぶって、少し沈んだ感じで、シンプル(簡素)な雰囲気を狙ってるのかな。多分。

見返しが水色から濃い黄色(特色で両面刷ってる!)に変わってるのも印象的。
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全体的に、文化が変わるとこういうふうに読み替えるのか〜と(もしかしたら穿ちすぎ?)思った。

わからないのは、文字ページの刷り色が、ランダムにセピアになったり、スミになったりするところ。日本のマンガ誌が紙色も刷り色も変わるのと同じ?(あれはなんでなの?なんか前に理由を聞いた気がするけど忘れた)
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読んでる本は、「聲」(川田順造著 筑摩書房)。ヒッポにも深くかかわられている藤村靖先生が、ローマンヤコブソンの翻訳をしてる本が参考文献にでてきたりする。
ヒッポで二十数カ国の言葉を聞いていると、本当にいろんな音がある。著者はアフリカのブルキナファソでフィールドワークをしてきた人。ヒッポにはスワヒリ語があるけど、ブルキナファソの「モシ語」は違う系統の言葉らしい。ものすごく豊な音の世界が人間の言葉にはあるらしいな〜と思うと、ヒッポで音をまねするのがますます興味深くなる。
同じ著者の「もう一つの日本への旅」(中央公論社)。この中には、ブルキナファソの種まきのようす(「折り畳みナイフ型」と著者が呼ぶ深い前屈。これは、骨盤おこしの中村先生が言ってる、「携帯電話を折り畳むように」というのと同じだ。)と、日本の田植えで、背骨を曲げてる写真が対比されてでてくる。この写真は前に中村先生に見せたが、また見たくなって図書館で再び借りてます。

太極拳の忘年会では、隣に座った気功のo先生にアルコールの危険さを解かれながらビールを飲んだ。酒は百薬の長、の長、は優れてるっていう意味じゃなくて、人間の歴史上一番はじめに薬と認められたもの、という意味だそう。長老、ってことね。人によってアルコールの処理能力がちがうけど、まあ一日20ccが適量だって。それも養命酒の濃度(20度位?)で。最近飲む量が減っている私は、「それで健康診断の数値がよくなったんだ〜!」と応じました。
目下の問題は、背骨痛。前述「日本の田植え」な背骨の曲げ方が関係あると思ってる。

2011年12月22日 本の場 | | コメント(0)

読んだ本、出た本、他


いろいろなことが進まないのは、自分がはっきりしないから。
(もともとの「夢」っていうかそういうのがあんまりなくて、単に会社で働きたくないとかだからかなり情けないのだ。)
うちは兼業主婦(主婦っていうのも変なことば。お袋、がそういう意味だとは知らなかった。)二人体制というか、「うち仕事」が分裂状態というか。
そんな状態がいやじゃないから続いてる。これでいいのか、と思いつつ。
今週も、はやく昨年の教室展の図録の表紙を作っていかなきゃ、と思いつつ、年賀状も作る。年賀状というものもどうなんだろう、といつも思うのだが。月火夜は息子をつれてヒッポファミリークラブのファミリーへ。ファミリークラブ、なのだが、今は私と息子だけが参加していて、この辺、妻より私の方が主婦的?子育て期間中は、仕事より子供優先?これもお姉ちゃんのあと七才も離れて息子だから間延びしていて、だらだらとなってる。まあ、いいのか悪いのか問うても仕方がないこと。もっと、子供や地域と密接なふうに、手づくり製本を活かしていく工夫をすれば、と思う。

今週読んだ本。「くう、ねる・のぐそ」(伊沢正名著)。本当にすごい。やっぱり実践(のぐそ)と観察(それを掘って分解の経過を撮影)だな、と思う。あと、「自分と子どもを放射能から守るには」(ウラジーミルバベンコ著)。目に見えない放射能、放射線を測れるようにしていかないといけない。


うちの教室の生徒さん、がお手伝いした、カリグラフィーの本がでた。カリグラフィーの作品化のとこで、簡単な糸とじを紹介してます。
カリグラフィー・ブック」(三戸美奈子著、誠文堂新光社刊)。歴史、道具、書き方、作品作りが流れよく紹介されてて、美しい本です。(開いたままみられるように、糸とじに改造したくなる、今日この頃。自分のために作る時間はないんだけど。)

2011年12月14日 本の場 | | コメント(0)

スモール イズ ビューティフル


「スモールイズビューティフル」を読んでいる。
数値をとばしながら読んでるのでよくないと思いながらも。

自分が今関心のあること。
身体のことを云々(骨盤おこし、など)しているのも
怒っちゃいけないな〜と心のことを云々している(アボムッレ・スマナサーラさんの「怒らないこと」を読んだ。「怒ってる」という状態を観察する瞑想(という言い方は方便、だそうだが)があるというのにへーと思った。身体を観察する骨盤おこしと共通するものがある。)のも
手と頭をそして身体を使って作業しなきゃ、と言ってるのも(自分の製本教室)。
なんとなく「そういうことが必要なんじゃないか」と感じてるのが、なぜなのか、その総括的まとめがこの本の中にはある感じがした。1973年の本だ。

工業化し、全員が消費者化した社会では身体を上手に使う必要がないから身体の能力が低下してしまう。労働がいや働くことが、身体を上手に使う必要があることだったならば(土田昇さんの穴大工の話を思い出した)、身体を動かすこと自体が自分を成長させ、楽しくもあるだろう。

心の欲望の抑制を取り払うことであまり要らないものにまで欲望をかきたてられる。一度抑制を取り払われた心は、薬物中毒のように、欲望をあおりたてて競争に励む。満たされることがないから「もっともっと」。
(ほしがりません、勝つまでは。が、消費は美徳へと。そして・・・・・。やっぱり社会全体がかもしている雰囲気に強力に影響される。)

2010年8月 6日 本の場 | | コメント(0)

『雑食動物のジレンマ 上』


トウモロコシが、一代雑種の種をもっている会社に牛耳られている、という話は、畜産関係の仕事をしている弟から聞いて知っていました。一代雑種というのは品質が完全にコントロールできるものだということです。メンデルの法則、でしたっけ。
品質が揃っているということは、工業化できるための条件です。
このことからのおそるべき(資本主義的)展開が、この本には書かれていて、「はー、そういうことだったの」と普段消費者の立場でしか、たべることに関わっていない私は、驚きました。と、同時にそんなことすら知らない自分に愕然となりました。そして、この本を読んだって依然として「知らない」ということは変わらないに近い、とも思います。
由来来歴が消え去ったものをイメージ(付加された物語)で買い求め、何も知らないことに疑問を持たずにその物語を消費する。そういうことを日々してるんだな〜と思いました。
知っても、この本を読む程度の知り方ならば、すぐに忘却の彼方。

体感から来るものを大切に、と思うのは、「本当には知らない」ということを知ってるから。理屈、わかりやすい論理は、説得力を持ちますが、理屈のないあるいはまだ論理的に証明されていないことは、「そう」であっても説得力に欠ける。


この作者マイケルポーランさんの本、むろん下巻もすぐ読んでしまいました。面白かった。
下巻では、実際に自然農法(というのだろうか、できうるかぎり、自然の仕組みをうまくつかったやりかた)の農場で働いて、鶏を絞めて自分で調理する、とか、猟銃の免許をとってイノブタを狩り、食べてみる、ということをやって、食べるってどういうことだろう、と考えを深めてます。つながって同じ著者の「欲望の植物誌」も読んでみましたがこれも、自分で実験してみながら考えているのが面白かった。続けて、内澤旬子さんの「世界屠畜紀行」読んでいます。ものすごく面白いし、すごい本です。


2010年4月28日 本の場 | | コメント(0)

手製本の漫画


知り合いの重松成美さんがマンガを出版された。
「白い本の物語」小学館刊行
多才な方で、人形、版画と文章、そして製本もなさっていたことがある。このマンガは、製本を学びにフランスに留学されていたときの体験をもとにしたもののようだ。
『ルリユールおじさん』と同様、フランスでの「本」に対しての愛情の体験がよきものとして描かれている。

私は、『パパラギ』を読み、続いて『逝きし世の面影』(渡辺京二著、平凡社)を読み出したところだ。私は深く考える人ではないので、なんとな〜く読んでてだめなやつだが、いつも気になってる「そこんとこ」っていうのはある。ヨーロッパ生まれの価値観で今の世界が構築されていて、日本はどうしたかそして今どうしてるか、とか、自分はどこから生まれてきて今どうしてるの(自分の価値観はどこに基づいてるの?)とか、そんなこと。
パパラギは、20世紀前半にヨーロッパを見て、故郷サモアでその感想(批判)を演説したサモアの酋長の演説の聞いたドイツ人が、酋長の演説を記録したというもの。
逝きし世の面影は、19世紀後半に日本を見たヨーロッパ人の記述を詳細に読みとって、その時代の日本を浮かび上がらせたもの。(まだちょっとしか読んでないにの書いちゃうけど。)
すごく大雑把だけど、どちらも異文化がどう見えたかということが、ヨーロッパという中心との関係が感じ取れる、というものだと思う。




私にも、本はいいものだ、と思う面はもちろんある。
けれど、本というものに対しても、ある距離を置いて眺めていたいと、いつも思う。

なんとなく 
浅き夢見じ 酔いもせず、
っていう気分。

2010年2月 2日 本の場 | | コメント(5)

やなせメルヘン名作集


教室にも時々いらしていただいてる、Sさんのチョイスで、やなせたかしさんのメルヘンが時を超えてよみがえりました。103年続いている「食生活」という雑誌に、1973年(だったかな)から35年にわたって連載されたやなせたかしさんの、一風変わった短いメルヘン。その初期の作品から選んだものです。

わかりやすそうで、わからない、わからないようでいてわかっちゃう、不思議なお話。
警句、を感じるものが多い。やなせさんは、90になった今でも世の中に納得なんかしていない、とんがった過激老人、だそうです、Sさんによれば。
そんな感じわかるね。「アンパンマン」ばかり書いていたら、狂いそうだ。
これもそれも、やなせさんという人なんだろう。(私、アンパンマンって、捨身飼虎をいつも思っていた。仏教世界、かと。)
むろん、私はこちらの世界の方が好ましい。

深い、青よりのブルーグリーンのPP表紙に、マゼンタの見返し。素敵な本です。
どこで読むかな、と考える。
むろん適当なとこで広げて読んじゃうんですけどね。
ちょっと開きにくいのは無線綴じハードカバーだから仕方がないか、
なんとなく、気分をそぎます。(ああ、製本やってなかったらこんなこともあんまり気にならないんだろうけど・・・)

木の上で、読みたいかな。鬼太郎のうち。
ハンモック?
たたみの部屋だな。

読む、ってなんだろう。
この、何かが入ってくる感じ。
それは言葉が入ってくるんじゃ、ないんだよな。

何かが入って来るんだ。



2009年12月20日 本の場 | | コメント(0)

『ネアンデルタール人類のなぞ』


子供の図書貸し出しカードを作って、本を借りるとき、ふと目にとまって借りた、岩波ジュニア新書の一冊。現生人類と同時代を生きたことがある、別種の人類、のお話。
どこが我々と違うのか、とか、言葉をしゃべったのか、なぜ滅んだのか、など。興味深い。
あとは、生きていた年代。あらためて思うけど、年数のスケール感がとってもひずんでしまうのを感じる。エジプトのピラミッドって大昔、と思うけど、紀元前2000年(あってるのか?)とかとして4000年前。ネアンデルタール人類が滅んだのが、数万年前。ものすごく昔じゃん。
だけど、近頃、何かと身近な(ジュラシックパーク、恐竜キング、毎年の恐竜展、などなど)恐竜の生きていたジュラ紀とか白亜紀とか1億年前、とかですよね、確か。それって考えられないくらい昔。アウストラロピテクスが確か300万年前、一億だと、その何倍?3倍で1000万年、その十倍だから、30倍前だよ。ネアンデルタールはその1/100だからそっから見たら3000倍も昔。その年々の重なり、気が遠くなる。
そう考えてみないと、ピラミッドも恐竜も単に大昔。
それと、被子植物が恐竜の時はまだ無かったんだな〜ってこともなんとなくびっくり。まったく生き物の歴史の全体感が掴めていない私だった。

立ち上がって2足歩行になったことで、人間という生き物の「らしさ」は決まっていった。
気功の講義も、そんな話題だった。ここ3回は、呼吸法をやっているのだが、ほ乳類の自然な呼吸は腹式呼吸だそうだ。いっぽう人間は前肢がフリーになることによって胸式呼吸が自然な呼吸となった。この呼吸は非常に効率がわるい(空気中の酸素は21%。人間の呼気に含まれる酸素は17%だそうだ。で、人工呼吸が可能なんだが、たった4%しか、酸素をとりこめないのだ)。それゆえ、意識的に腹式呼吸を学び、直立二足歩行によってでてきた弱点を改善するのがよい、という話。

興味深いことがいっぱいだ。




2009年10月15日 本の場 | | コメント(0)

科学


科学について考える。

今日はお盆などで2回休みだった太極拳と、そのあと「気について」の講義だった。

気の講義は(陰陽)五行説についての話が続いている。自然界のものやことをその性質によって、木火土金水の特徴になぞらえて、分類していく考え方。そしてそれぞれにある関係を観察、考察し対処する。自然界のことを分類していくのはそれほど、奇妙でなく、すんなりと納得できることが多い。春は木の気(のびて広がって行く性質)、夏は火の気(熱される)、長夏(土用)は土の気(最も安定している)、秋は金の気(凝集していき重くなる、充実する)、冬は水の気(氷らせて春までキープ)など。
しかし、人体の方となると、かなり新鮮な感覚がある。五臓(肝、心、脾、肺、腎)、五腑(胆、小腸、胃、大腸、膀胱)、五体(筋、血脈、筋肉、皮毛、骨)、五官(目、舌、唇、鼻、耳)五情(怒、喜、思、悲、恐)。それぞれ、木、火、土、金、水の順である。
この関係性は、今の時代では(というか、私のような素人には、と言った方がいいですね)ちょっと見抜けない。まあ、五臓はいいとして、それ以外はかなり意外な感じがする。
講義のあと、どうして、こういった関係性がわかったのですか、と、先生に聞いてみた。経験的知見。とのことだ。何千年もかかって蓄積された経験を考え、分類した結果、とのこと(私は何千年の間には、な〜んか知らないけどわかっちゃう天才が何人かいたんだと思うけど)。その知見は、現代の西洋医学から見ても正しい、とも言われた。西洋の医学(科学)はとてもスピーディ(多分この200年位?)に、理解に至った、とも。

そう。とてもスピーディに、というのは、「わかりやすい」ということなんだと思う。誰が見ても疑いなく、そう、という結論になることが証明できる、ということだ。
一方、上に書いたような五行説は、確かに分類ではあるのだがひとつひとつの語は、単なる指標にすぎず、内容を掴むには先生の話を何度も何度も聞いて(同じ角度からも別の角度からも)、しかも一つ一つ自分で感じとっていかなければならない。迂遠である。

しかし、本来、自然って「わかる」ものなのかどうか。

確か、アインシュタインの言葉が「科学者とは何か」(酒井邦嘉著)の中に引用されていて、「自然がこのように「わかる」ということが、不思議」というようなニュアンスだったと思う。ここが科学の凄さなんだろうな〜と思う。

一方、多分、陰陽五行説のようなものは、科学のようにわかろうとはしてないんだろうな、と想像する。ああでもない、こうでもない、と迂遠な言葉を使って、腑に落ちるまで時間のかかるわかり方が、なんとなく好ましい。

この言葉(西洋と中国)の気配の違いを、日本人として味わっていきたい。(ちなみに先生は北京生まれ、北京育ちの、日本人。ご両親が第二次大戦後抑留されて、こうなったらしい。)

2009年8月27日 本の場 | | コメント(2)

『遺伝子・脳・言語 サイエンス・カフェの愉しみ』堀田凱樹/酒井邦嘉


サイエンスカフェ、という試みの記録。サイエンスカフェ、は、市民が、科学者を囲んで、自由に話したり、質問したり、という会、というか場。二人の著者は遺伝子や脳科学の専門家なので、その話題を少し話してもらったところで、参加者が意見や質問をする、という形になっている。
ヒッポの大ちゃんが、この酒井先生の講演がある、ということで、読んでみた。う〜ん。
なんとなく、わくわくしない。なぜなんだろうか。
分かる、っていうことについての部分はそれなりに面白かった。
「言葉で分かる」でない「身も心も分かる」ところへ、連れてってくれそうな、武術の本ばかり読んでいたせいかな。
なんとなく、楽しめないのは、自分が感心を持っている身体感みたいなところがずるりと抜け落ちてるせいなのか、科学者という頭のいい人に引け目を感じるからなのか、そのへんがよくわからない。

2009年8月25日 本の場 | | コメント(0)

なにに興味があるんだろう?


8日の甲野さんの講習。
剣道やったこともないのに、「はいっ!」と手を挙げて、ずうずうしくも革を巻いた竹刀を持って、術を体験させていただいた。まず、普通の打ち方。これだと気配がありありなのでよけられる。はず、普通は。だけど、甲野先生に「この位はよけてほしいな〜」と言われてしまう、私のとろさ。半分以上、打たれてしまった。しかし、そのあとの気配を消した打、やはり、違いはわかった。全くよけられる気がしない。竹刀じゃなくて体術系の時にマット上へ行けばよかった、と後悔したけど、めげずに、そのあとも、合気道をやってる方の質問に乗じて、再度マット上へ。しっかり掴んでるはずの腕を難なくはずされる、なんだかわからない内に転がされている・・・など、体験しました。どちらも「あれっ?」という感じ。実感が希薄です。

そのあと、この10日くらいで「武学探求」「武学探求2」「韓氏意拳 拳の学としての意味」と読んで来ました。ものすごく、面白いです。はじめの二つは甲野さんと光岡さんの対談。

印象的なのは「一番近くにある自然は「自分」だ」という見方。そりゃあそうだな〜、と深く感じ入ります。人間や社会の作った規則を抜きにしてわれわれ生き物を統べているのは、自然の摂理です。武術は、ある状況では人間の作った規則など関係なく、相手を殺傷する技術。その無法地帯で有効なのは、その自然の摂理、というようなもんでしょう(ライオンが水牛を食べたり、水牛の逆襲でライオンが殺されたり・・・)。
自分は「考えているゆえに」自分。だけど放っといても、息をして、消化して、代謝して生きてます。その生きてるのは自分以外の何者でもない。

意識の上では(実際に)戦って相手を倒そう、とか、なんとしても護身しようというような気はそんなにないのに、なぜか武術に引きつけられるのは、多分、上記のようなことがあるから。

站椿功(と、言えないかもしれないけど、ただ、立つの)が面白いと思う今日この頃。
とりあえずやりたいと思った時に、とりあえず立ってみて、どこにどう力が入っちゃってるかとか、いろいろの感じを味わうのに飽きません。




2009年8月19日 本の場 | | コメント(2)

『ハチはなぜ大量死したのか』ローワン・ジェイコブセン著


知らなかったことがいっぱい。
まず、ミツバチというか、養蜂業の歴史。こんな発見や改良があって、上手に蜂蜜が採れるようになったんだ、ってことに始まって。
それが、加速度的に、大規模農業の、受粉に用いられるようになり、
大量生産、大量消費のただなかに置かれたミツバチの運命は、過酷化の一途をたどる。
受粉マシン、蜜製造マシン、として。
負荷がかかりすぎたミツバチは狂いだす。
この本の主題のCCDとは、ミツバチの群れが巣箱を置き去りにしてどこかへ消えてしまうことを言う。解説で、福岡伸一さんも書いてるとおり、それは狂牛病を思わせる。本来、草食の牛に、成長を早めたり、乳を沢山ださせるために、穀物と、もっとも安価で効率的なタンパク質である肉骨粉(同じ牛の病死のものとか肉をとったのこりの骨)を与え、と、経済効率から言って「正しい」ことを、追求していった、その結果、狂牛病という人間に及ぶ病が誕生した。
自然は長い時間をかけて、すべての関係の中で、生き物のさまざまな「生き方」を作りだしてきた。人間の「科学的」思考は、部分を見るのに適している。明快である。「原因は?」と考える。その「解決」が発見される。すっきり。
美しい、その秩序に、感動する。すごく感動する。
しかし、そうなのか?
いや、そうなのだ。人間の頭の文脈の上では。
ノーベル賞をとる科学の発見も、オリンピックで世界最速の男も、その文脈の上で「同じように美しい」ような気がしてならない。

いや。
話はもどって、アーモンドという作物がカリフォルニア?フロリダ?で近年のゴールドラッシュ的作物で、それは2月に花が咲き、その時期受粉できるための土着の昆虫がいないので、ミツバチの働きは非常に重宝されるのだが、本当はミツバチもまだ活動する時期ではないのを、コーシロップを与えてもう活動時期だよ、と勘違いさせ、労働させる。
そんなこと、全然知らなかった。
アーモンドが、少し前から、両親の食卓の横のタッパーの常備品であって、私もよくちょうだいしていて、何かに効くって言っていたな。っていうのはそういう経済の理屈だったんだな。前はずいぶん高級なイメージだったのが、近頃はそうでないのは。

先日いった、キャンプ場の夜の明かりに、虫が少ない。
虫が嫌いな人が多いから、よいことだろう。
しかし、私の小学生から中学生の9年間のうちに、夜の明かりに来る蛾をはじめとする昆虫が随分と減ったのを思い出す。開発が進んだからだ、寂しいな、と、昆虫好き(特に蛾)の私は思ったのを思い出す。が、問題は多分もっと深いところで、深刻に進行しているのだ。



2009年7月23日 本の場 | | コメント(0)

『薄氷の踏み方』


まだ、読んでいる途中。甲野善紀さんと名越康文さんとの対談。
軽くて楽しい口調(対談だから当然か)で、本質を語ってる。
面白くて、止まらなくなる。

ま、だいたい、一つの思考に共鳴すると、しばらくはそうなる。村上春樹さんのとき、内田樹さんのとき。何冊続けて読んでも面白い状態。

自分のしてる読書はなんなのだろうね。

仕事をほっぽって、ゲームとかするのと同じだね。
せっかく頼んでくれてる仕事になかなか取りかかれないまま。



2009年7月16日 本の場 | | コメント(0)

このところ続けざまに


甲野善紀さん関係の本を読んだ。最初の著書『裏の体育、表の体育』、『剣の精神誌』、田中聡さんがまとめた『身体から革命を起こす』、養老孟司さんとの対談『自分の頭と身体で考える』、多田容子さんとの対談『武術の創造力』、田中聡さんと中島章夫さんの共著で甲野さんの術へのアプローチ方法を書いた『技アリの身体になる』。そして、DVD『甲野善紀の身体操法』。

書くこと、や、書いてあるのを読む、ことについて考える。「たとえ」は、わかったような気にさせるからよい、と同時に誤解というか「そうじゃない腑に落ち方」をしてしまう、悪いところもある、などと書いてあった気がする。
とても説明がうまい。

江戸時代に洋式の時計をばらしてみて、和時計を作る、とか、ウィリアムモリスのパーチメント装を写真をみただけで(こうなってるのかな〜、と)作る、などなど。言葉で書いてあることって、そういう感じがする。

身体を使うこと、って実際にやってみなければわからないけど、残された言葉をうけとって意味を身体でさぐりながら、作業していくことっていうのがどうしても必要。
文字になった言葉っていうのも、そうやってもう一度身体にもどして解釈していくと、とても大事なものなんだな、って思う。

身体にもどしてあげれば、「言えないことを表現した」文字になった言葉が生きて来る。
「本」を大事にできそうな気がした。

2009年7月15日 本の場 | | コメント(3)

『野口体操 野口三千三+養老孟司』


太極拳でご一緒させていただいてる方から大分前にお借りしていたDVD。やっと日曜日に見ました。1991年に撮られたものなので、養老孟司さんがとても若いです。

野口三千三さんが、養老さんを評して
「自分ととても同じことを考えてる、だけど、それだけじゃなく、『どういうことだそれは。全然わからないぞ』ということも言っている。そこに激しく惹き付けられるので、敬意を持つ」
という意味のことを言っているのが印象に残りました。

・いろいろな人はみんな違う角度からものを見るから、人によって見え方が変わって、それが面白い。

・解剖学の本に骨の形は図示されているけど、重力の方向が書いてない。それと時間の経過が書いていない。

・漢字の元、甲骨文字に深く共感していて、体の感覚から文字が作られたというように、野口さんには理解されているようだった。

などのことが印象に残りました。

私が、大学生の時、野口先生の授業は有ったんです。
「こんにゃく体操」「野口体操」の名前は知っていました。受けてみよう、と思った記憶はないです。今このDVDを見ると、すごく面白くて興味をかき立てられます。大学当時、4年間、三木茂夫先生の「生物」の授業を受けつづけました。私には、三木先生と野口先生の感じ方はつながりがあると思われます。ただ、大学生当時は、自分が今よりもずーっと文字と視覚の人だったような感じがします。で、文字と視覚から「発生の不思議」を感じとって感動していたのが、三木先生の授業だったのでしょう。文字とヴィジュアルでなされた表現を感じ取って、それを自分の血肉にしていくには、実体験が不可欠だと思います。体ですることはすべて実体験ではあるのですが、視覚(書き出された文字を読み取ることも、広く視覚に含まれると思う)だけによると、体験は薄く、あらたな何かを作りだす原料としては、足りない感じがする。

「体操」(野口先生の言う体操、私にとっては太極拳も含む)や、「歌う」(好きな歌をカラオケで歌うことも、ヒッポファミリークラブで多言語のCDをまねしてしゃべる、つまり歌うことも)っていうことは、人為的に体を使って、「自分」を感じとっていく実験なんだと思う。


2009年5月12日 本の場 | | コメント(0)

美篶堂の本


きのう、美篶堂さんから『はじめての手製本』(美術出版社)が送られてきました。美篶堂さん、ありがとうございます。手製本のやり方が載っている技法書なのですが、美篶堂というお店、製本所、の雰囲気をそのまま伝える読み物でもあります。本全体があのギャラリーと人々の気配そのもの。

私は自分の出版記念展をやらせてもらったり、何かとお世話になっている場所です。
本の中では上島松男さんの
「10年、20年ではわからないことがある」
という言葉が、印象に残りました。やってること、やってきたこと、は全然違うのですが、「手製本」というキーワードが縁となって、私は美篶堂さんと出会うことができたと思います。
製本自体はなんとなく習い始めてから20年。松男さんのおっしゃってる意味とは表面的には違うことかもしれないですが、20年では全然まだまだ、わからないことがある、ってやっぱり思います。


2009年4月18日 本の場 | | コメント(2)

『夏の庭』湯本香樹実

 

小5の娘から薦められて読みました。この間は『一瞬の風になれ』を薦められて読んだのですが、どちらも、(主に)男の子が成長するお話を女性が描いているという共通点があります。どちらもいい話です。

「おはなし」を作れる、っていいな。何かのきっかけで、おはなしや登場人物が自分の中で動き出すんだろうな。

娘から薦められた本を読んでみる、のは嬉しいです。特に感想をものすごく言い合うというわけでもないのですが。

2009年3月 2日 本の場 | | コメント(0)

『「ひきこもり」だった僕から』上山和樹 講談社 

 

「痴呆老人は何を見ているか」の中で引用されていたのが動機で読んでみた。前半は引きこもりに至るまで、そしてその最中の記憶をつづっている。後半はその自分を観察して、いったいそれがどういうことなのかを、読み解いている。口調は激しい。

「お金をかせぐこと」「社会とつながる回路をもつとは」など、人間という存在の根本的なところにタッチすることが書かれていると思う。まさに「ここ」だな、患部は、という感じだ。

私は引きこもりではなかったが、学生の時のことを思うとそれに近い気配はあった。また就職もいいかげんだったし、小学生のとき「将来何になりたい?」というよくある質問に、ともかく「勤める」のだけはいやだな、と思った記憶がある。そういった点では、上山さんに共感できるところはあるけれど、今も少し前からも楽しくやれているから(何しろ勤めてなくて家に居れるのだし!)、「共感した」と言っても、おもねっているだけになるのかもしれない。

自分の中の「お金」の意識の仕方が、実は、ぼかしが入っている感じがする。「仕事をして」お金をもらう、って思っているようないないような。「仕事が遊び」「遊んでお金をもらう」とか。都合のいい時だけ、「仕事」にして、都合が悪くなったら「遊び」。そのすり替えを世間から怒られない範囲でやっているのが、自分だな。

今は自分は「求められてる」と思えるし、そのこと(手製本周辺)にお金を払って、来てくれる人がいる、ということに、ものすごく、支えられている。というか、ほとんどそのことだけで「生きている」。ここに「自信」がある。そのことが安定してきているので、自信も安定してくる。それだけのこと、と思う。

私はつきつめて、考えることはつらいので、そうしないことでバランスをとっている。

ひきこもりになる人は本当につきつめて考えてしまうのだろう。そういうタイプの人も必要なんだと思う。そうでないと、この本で明らかにされている「問題点」は見えないだろうし、それに耳をかたむけないと、どこに問題があるのかわからないから。

(この本は2001年に書かれている。現状はそのころとどう変わったろうか。

 

2009年3月 2日 本の場 | | コメント(2)

『「痴呆老人」は何をみているか』 大井玄 著 


数ヶ月前に、予約を入れて、待っていた本。何故、予約を入れたのか忘れてしまったが、多分何かの書評だろう。
ともかく、「腑に落ちる」内容だった。
今の日本(そして世界)のさまざまな問題点。例えば、老人の介護、若者のひきこもり、戦争とかちがう宗教の人への攻撃、など。
著者は、介護が必要な老人を診る、医療の現場での観察から、「人間」というものが、どのように世界を認知し、生きているのか、についての一つの理解を書いている。

こう考えればわかるな〜、と、深い所で感じた。
「がんばっていこうよ!」と直接言葉をなげかけらても、かえって「そう」は思えない。
逆に、この本では、現状を冷静に観て、解釈して得た考えに励まされる。

2009年2月20日 本の場 | | コメント(3)

『現代アジア移民」重松伸司 編著


マレーシア交流に行くにあたって検索ででてきて、目を通してみた。
むしろ、日本における、韓国、朝鮮の在日の人に対しての日本人自身の意識のことや、イスラエルにおける、非ヨーロッパ系のユダヤ人の問題などが興味を引く。そして、民族意識は、深く自分自身という個人が「誇り」をもつ根拠となっていて、劣等感や、優越感や、人間なら当然もつ感情の元になってる。それらをどうコントロールするかは、長く時間をかけて自分自身を改善、進歩させていかなければならない問題で、ともかく閉じこもっていては道はない。実際の現場に行って、いろんな人に会って、話をすることしかない、と感じる。

この本とは関係なく、思う事。個人の自信、国としての自信、今それが両方わりに満たされているのが、アメリカや西ヨーロッパではないだろうか。自信は余裕や優しさとともに横暴も生む。日本の現代は、激しい上下動があるな〜と感じる。

2009年2月17日 本の場 | | コメント(0)

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