「この日の学校」行ってみた
23日夜は、家族で「この日の学校」、甲野善紀さんと森田真生さんのレクチャーに行ってみた。武術と数学がどうからむのか、と思ったが、それぞれの今を語る形の会だった。
甲野先生の技は、今回妻が体験させてもらって、「どうしてこうできるのか、まるでわからない」という実感だったようだ。これはレジ袋を腕に下げるつもりの形に腕をして、そこをお尻をついてしゃがんだ人に両手でもってもらい、立ち上がるとしゃがんだ人を起こせる、というもの。(甲野先生最新の術、キャスター付き風見鶏、の方は、遠目にみていても凄そうだった。受ける方は、より何がなんだかわからない、という感じに見えた。)
昨日、家で妻とお互いに「しゃがんだ人を起こす」のをにやってみたのだが、本当に手の指を曲げてるかそうでないかで、起こせるか起こせないか、全く違う。そして、結果は歴然と違うのに、手や腕の中での感覚ではまったくそれがわからない。「起こせるか起こせないかというのを感覚できるには、そうとう感覚をトレーニングしないと難しい」と甲野先生もおっしゃっていたのだが、本当にそのとおり。
私は今回は主に森田先生の話を聞いてしまったように思う。たとえば、代数幾何、という分野が数学にあり、その概念の説明。幾何の世界で目に見える図形を、数値や式で表せる、つまり代数の世界に表現でき、逆もできる。幾何は目に見えるので、感覚的に理解しやすいが、それだけにあんまり突飛な発想はできない。それを代数に翻訳してそこで検討して、でてきたものを幾何にもどしてやる、というようなことが面白い展開を生む、というようなことらしい。
その、代数を頭の中で検討するのが、数学にしたしんでいない私のような人には想像もつかいない感じなのだが、それが「腕の中で何が起きてるのかを体感できる」みたいなことのような気がし、体感できたら面白いんだろうな〜と思えた。
なんとなく数のことは頭で考えてるようなイメージがあるが、頭も身体の一部だし、想像以上に数覚も体感的なものなんだろうな、と思わされた。
無意識にしている日常の動作。多分、それをひとつひとつ体感をあじわうように体験していくことが必要だ。しかし、普通だと漠然としてとっかかりが得られない。わかりやすい作業の点検から、ということになるだろう。たとえば、左足親指根本が痛む、とは思っていたが、昨日歩いて太極拳行く時、身体の内側から歩きを感じてみたところ、やっぱり、随分、そこ(母指)で地面を蹴っているのがわかった。あ、やっぱり指摘されたとおり、蹴ってる、と思った。そうすると、太極拳のとき、両手の親指に力が入りすぎて反ってるのが気になった。製本の作業の時、なんとなく随分親指に力が入ってるような感じがあったけど、それを抜いてみたらどうなるかとか試してみよう。
太極拳には套路という「かた」があるのだが、この「かた」による稽古ってものはもしかしたら、そういう「かた」をした時の身体の反応を利用して体感して、身体の動きかたを認識しなおすためのものでは、と思った。
2010年2月25日 本の場
| 個別ページ
| コメント(0)
太極拳体操だとしても
昨日は太極拳の忘年会。おとといは教室の忘年会。こちらは西荻窪のタイ料理やさん「ぷあん」で20人で。おいしくて、なごみました。
昨日は太極拳の忘年会。
むろん、忘年会前は今年最後の練習。準備運動の開脚の前屈や普通の前屈でも前回と感覚がちがうし、鏡でみても、胸の姿勢がよくなっています。
両手をおなかにあてての站椿から、靴の中の足をにぎって(特に外側の三趾)MP関節の方に乗り、踵にはあまり乗らないようにして、やってみました。久々に先生から姿勢についてチェックが入りました。これは、よりこまかい指示があたえられた感じがして、かなりうれしい。MP外側に乗りながらも、はい骨でなくとう骨にのって、「すわるように」というけど、いままで、かなりかかとに乗って「どっこいしょ」と落ち着いてすわっていて、そうじゃないらしいぞ、って感じがしました。「すわるように」というのも微妙なもんです。足のアーチの作り方が、内側にしめるようなものではなさそうだ、というのがわかりました。
套路も外三趾のMP関節に乗ると、力がよく伝わる感じがします。陳式の手のしぼりかたも外の三指を意識すると随分、効きそう。
そんなことを思いながら套路をすると、面白いです。
自分は戦う気はないので、武術をやるのもおかしな話です。
「健康体操」といわれればまさにその通り。
そして、美しく舞いたいみたいな気持ちもあんまりないです。
たぶん、身体の研究、身体の力学の研究、みたいな楽しみ。こういうふうに立ったら気持ちいいな〜とか。
その道標として例えば、「牧神の蹄」持ち上げられるぜ〜、みたいな人とも刺激しあえる楽しみがちょっとあることもおまけの楽しみです。前屈できるようになる、とか、開脚できるようになる、とか、しゃがめる、とか、そういうのも、まあ、おまけといえば、おまけ。
套路の中の技っぽく見える型をおぼえても多分、戦えない。
多分戦うことがあるとして、それは、素人がその場で「なんとかする」という戦いでしかないから、その時に、もし何か有効なものが「太極拳体操」の中にあるとすれば、自分の機能をじっくりと観察しあじわっていた、ことによる自然な動き、なのではないか。
忘年会では、女性陣はいろんなことを楽しく話し、男性陣はやっぱ、太極拳や気功の理屈、みたいなことを。
ま、長老のFさんおっしゃるとおり、「何回でも動いてみなけりゃだめなのは当然。理論も読まないとだめ。どちらも何度でもやっていかないと!これは来年の課題だよ」と言って中国武術の理論のコピーをくださいました。
私は気を学ぶを教えていただいてるO先生の隣だったので、少し話すことができて良かったです。
今年は「気」のことも、座学で学び始められたし、よかった。
2009年12月17日 本の場
| 個別ページ
| コメント(2)
科学
科学について考える。
今日はお盆などで2回休みだった太極拳と、そのあと「気について」の講義だった。
気の講義は(陰陽)五行説についての話が続いている。自然界のものやことをその性質によって、木火土金水の特徴になぞらえて、分類していく考え方。そしてそれぞれにある関係を観察、考察し対処する。自然界のことを分類していくのはそれほど、奇妙でなく、すんなりと納得できることが多い。春は木の気(のびて広がって行く性質)、夏は火の気(熱される)、長夏(土用)は土の気(最も安定している)、秋は金の気(凝集していき重くなる、充実する)、冬は水の気(氷らせて春までキープ)など。
しかし、人体の方となると、かなり新鮮な感覚がある。五臓(肝、心、脾、肺、腎)、五腑(胆、小腸、胃、大腸、膀胱)、五体(筋、血脈、筋肉、皮毛、骨)、五官(目、舌、唇、鼻、耳)五情(怒、喜、思、悲、恐)。それぞれ、木、火、土、金、水の順である。
この関係性は、今の時代では(というか、私のような素人には、と言った方がいいですね)ちょっと見抜けない。まあ、五臓はいいとして、それ以外はかなり意外な感じがする。
講義のあと、どうして、こういった関係性がわかったのですか、と、先生に聞いてみた。経験的知見。とのことだ。何千年もかかって蓄積された経験を考え、分類した結果、とのこと(私は何千年の間には、な〜んか知らないけどわかっちゃう天才が何人かいたんだと思うけど)。その知見は、現代の西洋医学から見ても正しい、とも言われた。西洋の医学(科学)はとてもスピーディ(多分この200年位?)に、理解に至った、とも。
そう。とてもスピーディに、というのは、「わかりやすい」ということなんだと思う。誰が見ても疑いなく、そう、という結論になることが証明できる、ということだ。
一方、上に書いたような五行説は、確かに分類ではあるのだがひとつひとつの語は、単なる指標にすぎず、内容を掴むには先生の話を何度も何度も聞いて(同じ角度からも別の角度からも)、しかも一つ一つ自分で感じとっていかなければならない。迂遠である。
しかし、本来、自然って「わかる」ものなのかどうか。
確か、アインシュタインの言葉が「科学者とは何か」(酒井邦嘉著)の中に引用されていて、「自然がこのように「わかる」ということが、不思議」というようなニュアンスだったと思う。ここが科学の凄さなんだろうな〜と思う。
一方、多分、陰陽五行説のようなものは、科学のようにわかろうとはしてないんだろうな、と想像する。ああでもない、こうでもない、と迂遠な言葉を使って、腑に落ちるまで時間のかかるわかり方が、なんとなく好ましい。
この言葉(西洋と中国)の気配の違いを、日本人として味わっていきたい。(ちなみに先生は北京生まれ、北京育ちの、日本人。ご両親が第二次大戦後抑留されて、こうなったらしい。)
2009年8月27日 本の場
| 個別ページ
| コメント(2)
なにに興味があるんだろう?
8日の甲野さんの講習。
剣道やったこともないのに、「はいっ!」と手を挙げて、ずうずうしくも革を巻いた竹刀を持って、術を体験させていただいた。まず、普通の打ち方。これだと気配がありありなのでよけられる。はず、普通は。だけど、甲野先生に「この位はよけてほしいな〜」と言われてしまう、私のとろさ。半分以上、打たれてしまった。しかし、そのあとの気配を消した打、やはり、違いはわかった。全くよけられる気がしない。竹刀じゃなくて体術系の時にマット上へ行けばよかった、と後悔したけど、めげずに、そのあとも、合気道をやってる方の質問に乗じて、再度マット上へ。しっかり掴んでるはずの腕を難なくはずされる、なんだかわからない内に転がされている・・・など、体験しました。どちらも「あれっ?」という感じ。実感が希薄です。
そのあと、この10日くらいで「武学探求」「武学探求2」「韓氏意拳 拳の学としての意味」と読んで来ました。ものすごく、面白いです。はじめの二つは甲野さんと光岡さんの対談。
印象的なのは「一番近くにある自然は「自分」だ」という見方。そりゃあそうだな〜、と深く感じ入ります。人間や社会の作った規則を抜きにしてわれわれ生き物を統べているのは、自然の摂理です。武術は、ある状況では人間の作った規則など関係なく、相手を殺傷する技術。その無法地帯で有効なのは、その自然の摂理、というようなもんでしょう(ライオンが水牛を食べたり、水牛の逆襲でライオンが殺されたり・・・)。
自分は「考えているゆえに」自分。だけど放っといても、息をして、消化して、代謝して生きてます。その生きてるのは自分以外の何者でもない。
意識の上では(実際に)戦って相手を倒そう、とか、なんとしても護身しようというような気はそんなにないのに、なぜか武術に引きつけられるのは、多分、上記のようなことがあるから。
站椿功(と、言えないかもしれないけど、ただ、立つの)が面白いと思う今日この頃。
とりあえずやりたいと思った時に、とりあえず立ってみて、どこにどう力が入っちゃってるかとか、いろいろの感じを味わうのに飽きません。
2009年8月19日 本の場
| 個別ページ
| コメント(2)
このところ続けざまに
甲野善紀さん関係の本を読んだ。最初の著書『裏の体育、表の体育』、『剣の精神誌』、田中聡さんがまとめた『身体から革命を起こす』、養老孟司さんとの対談『自分の頭と身体で考える』、多田容子さんとの対談『武術の創造力』、田中聡さんと中島章夫さんの共著で甲野さんの術へのアプローチ方法を書いた『技アリの身体になる』。そして、DVD『甲野善紀の身体操法』。
書くこと、や、書いてあるのを読む、ことについて考える。「たとえ」は、わかったような気にさせるからよい、と同時に誤解というか「そうじゃない腑に落ち方」をしてしまう、悪いところもある、などと書いてあった気がする。
とても説明がうまい。
江戸時代に洋式の時計をばらしてみて、和時計を作る、とか、ウィリアムモリスのパーチメント装を写真をみただけで(こうなってるのかな〜、と)作る、などなど。言葉で書いてあることって、そういう感じがする。
身体を使うこと、って実際にやってみなければわからないけど、残された言葉をうけとって意味を身体でさぐりながら、作業していくことっていうのがどうしても必要。
文字になった言葉っていうのも、そうやってもう一度身体にもどして解釈していくと、とても大事なものなんだな、って思う。
身体にもどしてあげれば、「言えないことを表現した」文字になった言葉が生きて来る。
「本」を大事にできそうな気がした。
2009年7月15日 本の場
| 個別ページ
| コメント(3)
『身体から革命を起こす』甲野善紀/田中聡
面白かった。前にも何冊か読んでいる、古武術の人の本。これは、甲野さんのやってる研究に縁をもった様々の分野の人への聞き書きというような体裁をとっている。そもそも取材で縁をもった田中さんが書いている。身体感覚、は言葉化できないのだが、それを言ったらあらゆることが言葉化できないということにもなるわけで、甲野さんがこんなに表舞台にでてきてるのも「言葉化」する能力がとても高いんだと思う。田中さんという非常に甲野さんに興味をもっている書き手から外側から見ることで、別角度から読める「甲野さんのやってること」になってる。すぐに動いてみたくなる。
2009年7月 1日 本の場
| 個別ページ
| コメント(0)
『野口体操 野口三千三+養老孟司』
太極拳でご一緒させていただいてる方から大分前にお借りしていたDVD。やっと日曜日に見ました。1991年に撮られたものなので、養老孟司さんがとても若いです。
野口三千三さんが、養老さんを評して
「自分ととても同じことを考えてる、だけど、それだけじゃなく、『どういうことだそれは。全然わからないぞ』ということも言っている。そこに激しく惹き付けられるので、敬意を持つ」
という意味のことを言っているのが印象に残りました。
・いろいろな人はみんな違う角度からものを見るから、人によって見え方が変わって、それが面白い。
・解剖学の本に骨の形は図示されているけど、重力の方向が書いてない。それと時間の経過が書いていない。
・漢字の元、甲骨文字に深く共感していて、体の感覚から文字が作られたというように、野口さんには理解されているようだった。
などのことが印象に残りました。
私が、大学生の時、野口先生の授業は有ったんです。
「こんにゃく体操」「野口体操」の名前は知っていました。受けてみよう、と思った記憶はないです。今このDVDを見ると、すごく面白くて興味をかき立てられます。大学当時、4年間、三木茂夫先生の「生物」の授業を受けつづけました。私には、三木先生と野口先生の感じ方はつながりがあると思われます。ただ、大学生当時は、自分が今よりもずーっと文字と視覚の人だったような感じがします。で、文字と視覚から「発生の不思議」を感じとって感動していたのが、三木先生の授業だったのでしょう。文字とヴィジュアルでなされた表現を感じ取って、それを自分の血肉にしていくには、実体験が不可欠だと思います。体ですることはすべて実体験ではあるのですが、視覚(書き出された文字を読み取ることも、広く視覚に含まれると思う)だけによると、体験は薄く、あらたな何かを作りだす原料としては、足りない感じがする。
「体操」(野口先生の言う体操、私にとっては太極拳も含む)や、「歌う」(好きな歌をカラオケで歌うことも、ヒッポファミリークラブで多言語のCDをまねしてしゃべる、つまり歌うことも)っていうことは、人為的に体を使って、「自分」を感じとっていく実験なんだと思う。
2009年5月12日 本の場
| 個別ページ
| コメント(0)
意念
意念という言葉、この前のブログにちょっと書いたのですが、そのあと、今週のいつもの太極拳の講習の時、気功のo先生に少し聞いて、もうちょっと違うものなのかもと、思いました。
意念は太極拳を練習している時にある、意識(というのか、こう動きたい、というのか、そういう思い)。日常生活の中ではないものとのこと。練習の時にスイッチを入れるように、意念をもつようにする?、のかな?なんかそんなものらしい。
手を上に大きくのばす、という動きをするとき、手の部分を意識してのばそう、とするのが普通のやりかたですが、実は手を上にのばすためには、体のほかの部分をのばさなければなりません。それは、考えればごく当たり前ですよね。こういう時にうまく、手を上にのばさせるのが「意念」というものらしい。(意識下で、思いの方向付けをする、というのか、そういうことのような気がします。言葉にして願うだけでなく、本当にそうしたいと心底願うというのか、体がそうしたいと思っているというのか。)
難しく考えると限りなく難しい気がするけど、とりあえず、わかる範囲で理解していこうと思います。手をつかまれてそれを外す、というような場面設定が太極拳ではよくあるんですが、そんなとき、いくら手に力を込めてもだめなのは、やってみるとわかります。もう少し元の方から体を使わないとだめです。そんなことからちょっとずつ。
2009年3月22日 本の場
| 個別ページ
| コメント(0)
らおしー、しぇいしぇい!
日曜、自分の製本の講習(Bee Worksさん、デザイン会社の社内ワークショップです)のあと、呼んでくださってるSさんと、飲み過ぎて、苦しい朝でした。
しかし、10時から17時まで、王西安先生の陳式太極拳の講習は、とっても楽しかったです。
力強さ、安定感が、すごかった。王先生の胸や肩にも触らせてもらい、緩んでいるという状態を感じとらせてもらいました。胸をゆるめなさい、と自分の胸にも触ってもらいました。
ちーしー(起式)だけで30分ずっととか、いつもそんなにまじめにやってない自分には新鮮でした。
もっと体、特に股関節、胸、肩甲骨付近をゆるめる必要を強く感じました。なんとかして、ストレッチもやったりして、そこらへんを動くようにしなければ、と思いました。そこらへんがゆるんだら、もっともっと楽しそうです。
今日は、懇親会まで、妻ともいっしょに行けて、それもよかった。
水曜にいっしょにやっているメンバーも沢山きていたし、日本の沢山のお弟子さんに囲まれた王先生もとても楽しそうで、本当に和む、いい時間でした。
中国語は、らおしー、しぇいしぇい、つぁいちぇん、位しか言えなかったけど、なんとなくいろんな言葉が聞き取れました。いーにぇん、は意念、か、とか。
「意念」はとても大事なことで、何をするためにこの動きがあるのか、どう動きたいのか、とかを考えて動く、ということで、形だけをまねしてもだめ、ってことです。
2009年3月17日 本の場
| 個別ページ
| コメント(0)
音
音で伝えること。
今日、なんか引っかかってきたこと。3月に太極拳の中国の先生が来るのだが、そのことをうちの先生が話している時、套路の形に名前がそれぞれついているのだが、その意味、けっこう口伝で伝わっているので、表記した時いろいろ変化しているという話になった。それに加えて、気功の先生は、字の意味より音が大事、と言っていた。りゅうふんすーびー、と聞こえる六封四閉は、字面を見ると意味不明なんだが、それは音から別の漢字が当てられて定着してるものらしい。ああ、だから、いつもうちの先生は套路の漢字を日本語で読まないんだ、と納得した。
気功の先生の講義も4月から始まるので、是非受講したいと思うのだが、テキストはつかわない、とおっしゃっていた。書かれたものは、誤解をまねく、ということなのか。
文字はとても役にたつものだけど、全然伝わらないこともある。文字に過剰な期待をしてはいけない、ということだ。そして、口伝というものが大切にされるということもなんとなくわかる気がする。
赤ちゃんは文字以前に、音から言葉を知る。ヒッポの活動が、その点でも、意味深いという印象を持った。
文字、は、音楽で言ったら、楽譜にしかすぎないのかもしれない。(私は音楽をしないので、あんまりわかりませんが。印象としては。)
で、自分の本(製本の技法の本)なんかでは、伝えようと努力をするけど、やっぱもう無理、と思う。
扱う対象がもっと「意味」みたいなことだったらなんとかなるのかもしれないけど、「こんな感じ」は伝えるのは無理、実際にやってみせないと。
2009年2月18日 本の場
| 個別ページ
| コメント(1)
新聞紙、やぶれない
教室の合間に毎週見てる、NHKのこども番組「ひみつのチカランド」。
昨日はチャンバラがテーマ。体の軸がきまり、声を発しながらパンチをうつともう一方の手でぶら下げた新聞紙に穴があく。太極拳やってるからできるかなと思ったらできないので、しゃくだ。娘の方が先にできた。
むきになって力がますますはいる。これではますますだめだ、と思いながら、ついつい。これはやると手をいためるかもと思いながらついつい。(手は筋肉痛なだけで大丈夫だった。左右の肩甲骨の間の筋肉を使うとか、大腰筋をのばすとか、この番組、興味津々なことがいっぱい。この間は尺八の呼吸、和服が役割を果たしてる、とか、私のつぼだった。)
2009年2月 1日 本の場
| 個別ページ
| コメント(0)
エンドルフィン?
「おふろからでたみたいな顔してるね。」と先週一度套路を通したあと先生に言われた。別の言葉で言えば、気持ちよさそうなリラックスした感じ、ということだろう。
套路をするということは気持ちのいいことと体が受け取っているのだろう。それは頭で考えている以上に体は感知しているような気がした。
意識は経験によって体を把握していく。
前に「均整術」という背骨をまっすぐにして体を整える施術をだいぶ長いこと、隔週で受けていた時のこと。はじめは、「どんな感じですか」と先生に聞かれても何も説明できなかったのが、数か月するとしゃべることができるようになった。「感覚」を意識化できたきたのだ。
2009年1月29日 本の場
| 個別ページ
| コメント(0)