チョムスキー講演報告を聞いて
思いが熱かった。すばらしかった。
チョムスキーさんの講演の内容は、「
自然と言語」の第3章にあることがメインだったとのこと。(私、まだちゃんと読めていない)
「言葉と人間を自然科学する」というのが、ヒッポをはじめた榊原陽さんのかかかげたテーマだが、その榊原さんの初期のころにチョムスキーさんとの交流があったそうだ。そして30年ぶりか40年ぶりかでで榊原さんのこども達というか仲間たちというかであるヒッポのメンバーが、スザンヌフリンさんとの出会いを経て、チョムスキーさんとの再会というのか、出会いの機会を得た、といういきさつが、報告を聞いているとわかってきた。
ちゃんと知識なくしゃべってしまうが、言葉を自然科学しようとした人がチョムスキーさんらしい。言語学を物理学とかのような自然科学としてやってみようということ?ともかく、科学というのは、「こうだ」というためには、実験をして誰が見てもただしいという証明をしたり、していかなければならない。異論を論破していかねばならない。そのためには細部をゆるぎないもので固めていかねばならない。大和田先生の感想は、そうやってずっと闘ってきたのだなチョムスキーは、というものだった、と聞いた。
一方の榊原さんは言語学とたもとを分ち、「ヒッポファミリークラブ」やレックスをやっていった。人間である自分を全うするということは学問で成果をあげる(新たな説の正しさを明らかにする)ということじゃなくて、この、まわりに居る人達といっしょにいかに生きていくか、ということの方に興味が有ったんだと思う。しかも、実践して結果を出す、ということだけでなく、生活の中で実験して観察し、言葉や人間がなんなのかということを、研究していく。今の自然科学よりもっと広いというのか一次元上の枠で、新しい科学みたいのものを考えていたのではないか。
今回、チョムスキーさんに触れた人達は一様に「おだやかなやさしいおじいちゃんで、とてもこちらに好意をもってくれてるのがひしひしと伝わってきた」と話していた。それは多分、チョムスキーさんがずっと昔の知己である榊原さんの学問ではない実践としての今の姿をヒッポを見たからでは、という感想に、それはあながちひいき目だけではないだろう、と
私も感じた。
自分の中にある、言葉の「普遍的構造」。それは自分の語りかけに対して外からの刺激をもらうことによってしか起動しないし、表にあらわれ、理解の対象となることもない。
「学者の研究の結果に何か答えがあるんじゃなく、主婦だったりする普通の一般ピープルとしての自分の中にしかないんだな〜、普段の暮らしの中にしかないんだ」と強く語る、今回ボストンに行った方の一人。うーむ。共感します。
なぜヒッポが「多言語」と口酸っぱく言うのか、少し感じられてきたかも。
「心を開いて」っていうのがどういうことなのか。それは結構むずかしい。
どういうことなのか、も難しいし、実際にそれをするのも難しい。
そして、そんなことを「難しい」な〜んてもっともらしく言ってばかりいないでやりゃーいい。
本来持っているものを認めて、それを発展させていくのが、難しい。
いろいろ邪魔をするものが、ある。その第一が「自分」なんだろう。
すごく抽象的な、話になってしまったが、なぜ「多言語」か、というと、
人間の言葉は一つ(つまり、「言葉」というあるきまりを持ったシステム自体は何語であっても手話であっても全部に共通するもので、それを普遍文法というらしく、その普遍文法はすべての言葉に共通って意味)、
生き物の中で人間のような言葉を持つのは人間だけ、
そして、
「人間」って何なの?って思うとき、言葉を持っている生き物っていうのが
ものすごく大きな特徴で、
そのことを調べたらかなり、人間が何なのかを理解できていくのではと思う。
それで大事だと思う。
で、その普遍文法が生得的か後天的かどっちがあってるのかは、科学的に議論のあるところらしい。
が、普遍文法みたいのを仮定すると、ヒッポの活動に方向性がすごく出る感じがする。
もともと榊原さんはそういうことをわかっていてやってるんだと思うけど、私は、昨日今日にそう思った。
それを意識して多言語を話そうと試みてみよう。まあ、下記のようなメタ活などを、シング&ダンスで身体を動かしてやって行くってことですけど。
ヒッポで「メタ活」と略称されている「メタフィジカルランゲージアクティヴィティー」。具体的に言うと、やってることは多言語(今は21カ国語)のCDをそのまま真似ること。
よく聞くこと。その通りに真似ること。それを「言葉を歌う」と表現してるヒッポ。
なかなかできない。それぞれの言葉に特徴的なリズムとか音があって。
日本語にない音がいっぱい。日本語にないリズムがいっぱい。
いや、青森の言葉だって私の東京弁(勝手に標準語だって思ってるんだけど)違うリズムと音だよね。
なんで、こんなに多様なんだろう、ことばって。それがものすごく不思議。
でも生き物の形を考えても、例えば昆虫ってなんだこんなにいっぱい形や柄が違うの?ものすごく不思議、って思うのに似ているのかも。
文字を学んで文法からアプローチしていくのではなく、
こっちの方からアプローチして行く事ってありだし、
学者ではない普通の人にはそれがいいはずだ。
DNAやら量子力学やらフーリエ変換やらやら、そういうことも「知りたーい、やってみたーい」と行ってしまう、ヒッポ(&トラカレ)。似非科学と思われ、宗教みたいと誤解され、結構苦難の道を歩んでいるところがある。
私もそれらの反応を知ると、不安になる。
だけど、やっぱりここには面白いことがあるし、誰にでも開かれた場があると思う。素人な状態で、科学にアプローチしていいし、素直に知りたいと思ったことを聞いていいし、思ったことを言ってみていいし、聞いてくれる人もいる。身体を使って考えてる感じがする。
直感で「ここはいいところだし、なんかあるよ」って思う。
自分はそうやって自分の直感で生きてきたし。
自分がその一個体である「人間」知るのには、自分を見なけりゃならないし、そのためには反応してくれる人々という環境が必要。そういういい環境に居るように意識するのは自分。
私は半分主夫(半分だから「主」とは言わないか。。。)で、一応製本家として本も出していて(だから肩書きは製本家)で、半端な立ち位置。これってどういう仕組みで機能するのか(機械などもそうだし、本の構造とか、使う道具とか)、自分の身体ってどうしてこういうふうに動くのとか動かないの?(作業の時の刃をどう使うとか、生活中に骨盤を立てるってどういうふうにするのとか)に興味があって、つまり「自分は何か」ってことにずっと興味があって、実はそれしか興味がないのかもしれない。自分から「人間」を知りたいんだな、多分。
そして製本の方では特種なセンスがあるらしく、著書が結構売れたり、センスをほめられたりして、うれしいし、なんと言っても社会の中で居場所が得られたのが本当によかった。(「センス」なんてものはちょっと時間がたったらすぐに飽きられるかもしれないって不安感もある。これからどう活動していくの?て思ってる。)
一方、身体のこと(骨盤おこしとか)とか言葉のこと(ヒッポ)では、相当不器用で、センスない。でもセンスがないってことが、あーでもないこうでもないと苦闘したり考えたりするによいってこともある。だめだからこそやってみてる、みたいなスタンス。
分けたら、「得意で好きなこと」と「上手にできないけどなんか興味あること」の二つでなりたってる自分。「苦手なことをなんとかする」も加えていかないと、ほんとやばい、と思います。
(ああ、長文を書いて確定申告の進行を先延ばししてる自分。早く終わらせて、24日からの韓国ホームステイへむけて気分一新したいです・・・)
2011年3月 7日 本の場
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ヒッポ、多言語、考えること
自分の何かが変わってきた。
このところ、月火の夜は息子とヒッポの「ファミリー」に参加している。
一昨日は、2年4ヶ月の日本滞在を終えて帰国する、韓国のHさん親子3人(日本に来て2ヶ月でヒッポに参加)を囲む感じの会になった。彼らが家族でやりとりする韓国語が聞こえて、それが今までとは違う感触だったのだ。あっ「できる?」って聞いたんだな、と思った。わかった、と明快には言えないが、すごく「知ってる」感じ。
来年3月に韓国に交流(つまりホームステイ)に行くことになって、それまで聞き流れてしまっていたCDの音が随分と別れて聞こえるようになってきた。「別れて」とは、ここで言ってるこの音と、あそこで言ってるあの音が同じじゃないか、とか、そういうこと。
去年(といってももう随分前だ、)マレーシアに行く前に中国語やらマレーシア語を聞いていたのとはかなり違う感じ。
それは、多分、韓国語はやっぱり日本語に近いからなんじゃないかと思う。ヨーロッパの人が隣の国の言葉をしゃべる人と自分の国の言葉でそのまま会話することが可能だったり、アフリカの人が何十という近隣の言葉が話せる感じ、というのは、こういう感覚なんじゃないか。
なんか「わかりそう」な感じなのだ。(それにしても、言葉ってなんで違うんだろう。まあ、それぞれの人の趣味嗜好が違うのと、根っこはいっしょなのかも)
ヒッポは今21カ国語のCDがあるが、最初は英語だけ、次にスペイン語、その次が韓国語だった。それは、「多言語」ってことを考えるのに、とても重要なことだったんじゃないか、とちょっとずつ体感しているこのごろ。
多言語についてのいろんなことが聞こえてくるヒッポの場。
私はまだ会っていないのだが、確か小学生まで日本でその後中国で育ち、大学で日本語を勉強したS君。彼は日本人と同じように完璧な日本語を話すが、考える時は何語でもないもので考えて、しゃべるとき日本語のモードにして出力する、という。
これぞほんとの多言語人間、すごい、と、中国の留学生のK君が言っていた。
今読んでいる「
仏教と脳科学」(アルボムッレ・スマナサーラ、有田秀穂 著)。ものすごくエキサイティングな会話がなされてるんだけれど、以下少々長いですが、322ページから引用(この本の本筋とは少し距離がある部分かも、ですが)。
ーーーー
スマナサーラ 私はみんなに言うのです。「もっと早く頭を働かせたいならば、言葉を捨ててください」と。私も考えている時には、できる限り言葉を使わないように努力しています。先に言葉なしに考えてから、言葉を後から入れるのです。しかし、いつもうまくいくわけではありません。アイディアはあっても、言葉が出てこないこともあります。
仏教の概念は難しいのです。大変高度なレベルの日本語能力がないと、日本語で説明することはできません。私の場合は、日本語の能力は決まって弱いのです。語彙力がないのです。では、どのように説法するのでしょうか。それにはプロセスがあります。
自分の母国語さえ使わず、まず言いたいことを考えるのです。それから、どの順番で言うべきか、整理してみます。次に、私が持っている日本語という小さな皿に載せてみます。それが言語化するプロセスです。それからしゃべります。
ーーーーー
スリランカ出身のお坊さんのスマナサーラさんはこのように言っている。
一瞬、言葉を使わないで考えるってどういうこと、と思うが、製本で工程を考える時はいつもそうだな。使ってる言葉は「こうやって、こうやって、こう」位。
そう考えていくと、私が製本で学んだことって意外と大事なことだったのでは、と思えた。
そして、3冊製本の著書を作って「言葉にした」ということで、言葉ってどんなもの(この場合、書き言葉、だが)ということを随分味わうことができた。
2010年12月22日 本の場
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ヘテロな集団
今回のタイトルは、又聞きの又聞きで、聞いた、
酒井邦嘉先生の、ヒッポファミリークラブを評する言葉。
例えば、研究者の集団はそれぞれの研究者の研究分野は違っていても、やってる態度が同じような、ホモ(同質な、の意)な集団。それに対しての、ヘテロ(異なった、の意)な集団、と言われたらしい。そしてその集団がたとえば、言語とは何か、みたいな一つのテーマについて考えて、行動しているという現象が、酒井先生にはとても興味深いことらしい。
私、ホモな集団が苦手、ヘテロな集団が居心地がいいな〜、そうか、ヒッポはヘテロな集団か、確かに〜と思った。
その一方で、切り口を変えてみると、違った見方もできる。
ヒッポでは海外に行ってホームステイしたり、海外の人を受け入れてホームステイしてもらう、プログラムがある。受け入れる側もステイする側もそれなりに経済的余裕がある階層となるだろう。経済的な切り口では、ヒッポはホモな集団なんじゃないか。学問的な切り口ではもちろんヘテロ。
あれ?・・・だからどうした、という話になった。
で、3月に、息子と韓国にホームステイに行くことにした、私。
ともかく韓国語をたくさん、聞いたり、言ったり、して身体に取り込んでいきたいと思います。
ヒッポ参加は2004年なので、もう6年。「多言語活動」っていうことについての考え方が、少しだけど変わってきたかな、と思うこのごろ。
で、それは、ヒッポの活動だけによる、というよりも、自分の製本教室やら、骨盤おこし、気功、太極拳などもふくめて、身体を使ったり、もう少し心のことだったりするけれど、「その行為を止めてるのは、自分」みたいなことをよく言われたり、思ったりもすることがある。止めてるものは自分、というのはその通りとして、自分の「何」なのか。それをしっかりと観察することが必要なんだな、と感じる。
多分、たくさんの言葉を聞いたりしゃべったりするのは人間という生き物には「当たり前」のことらしい、とうすうす感づいてきたのが、「変わってきた」と思う点だ。
では、なぜその「当たり前」が機能しないのか。
なぜ、股関節が可動しないのか。
結構近い問題のような気がする。
股割りは、「勇気があれば、誰でもできる」とは骨盤おこしの
中村先生の言葉。
今だめなのだから、しっかり観察し、今と違うことを恐れず試みる、という勇気ですね。
2010年12月13日 本の場
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一つに結びつけたくなる性質
学生の時、4年間いや、6年間かな、聴き続けた講義。三木茂夫先生の「生物」。
初めの頃は、このことを使って何か表現ができるんじゃないか、とあさはかなことを考えていた。言葉から「絵」をクリエイトしようというばかばかしいことを考えていた。「挿絵」が文章の解説になっては、無意味だろうということに気づかない、まぬけぶり。
昨日は
岩田誠先生のワークショップがヒッポファミリークラブであった。
「ヒトはなぜ絵を描くのか」というテーマでのお話。
ヒッポは多言語の自然習得を試みながら、国際交流もする、という団体だが、
ことばって何だろうと考えながら、ことばっていうことそのものを楽しむ、ような姿勢がある。(それは、人間ってなんだ?ということでもあると思う)
その結果、派生的に科学や数学を「ヒッポの方法」で理解しようというアプローチがあり、それが私にはとても面白い。
学校の時に、「勉強」の路線から外れている私も、いっしょに楽しんでいい、というのがありがたい。
で、岩田先生のほかの動物にないヒトの特徴は
1、ことばを話す
2、ハイハイをする
3、絵を描く
だそうで。まあ、ヒッポだからことばのことが出て来るのは当然として、ほかの二点が私にはものすごく興味深い。まあ、「絵を描く」のはある意味挫折してる私なのだが、なんといってもハイハイ。これはすでに「歩いている」の?
人間はなんで立つの。
というところに。
骨盤おこしでは、赤ちゃんの歩きに注目している。そのように歩ければ、というニュアンスがある。すわっている赤ちゃんがハイハイに移行するとき、見事に股関節がグリンと回転していた。あこがれのロールオーバーである。
全然書き出しと結びつかないのだが、
三木先生の授業での一つのテーマが「上陸」。進化の過程で、海から陸へ上がるというエポックがたいへんドラマチックに語られていた。それで38日の胎児の顔に、肺魚の面影を見たり。
一方、今私が引き込まれてるのが、多分、「立ち上がる」というドラマだ。
「胎児になってみよう!」は遠すぎて観念の遊びになってしまった。
「赤ちゃんになってみよう!」も現実は無理なんだけど、模倣はできそうだ。
こう書いてみると、なんとなく、身体が動かせそうな気が少ししてきた。
2010年11月 2日 本の場
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瞬間
昨日もヒッポファミリークラブの毎週のファミリー。
ファミリーには小さな子供連れのお母さんが沢山来る。
子供達はゆるく野放しな状態。うるさい。自分ももちろん子連れ(ただ、私は父だが)。危なそうなところへ登ったり、大騒ぎで叫んだり。注意するが、当意即妙な(いや、そうじゃない、さすがに。へりくつな?いや、ごりおしな?)言い訳や行動で、全然制御できない。制御しよう、という言葉からして、負けな感じがする。
小さな子供は大人と違って、あんまり余計なことは考えてなくて、瞬間で行動している。考えないで判断している。だから私が考えて彼らをどうとかしようとしても、遅いし、負ける。
一方、だからけがをしたり失敗をして、経験を積み、予測ができるようになる。そして瞬間に対するしかたが鈍麻して、大人になる。
赤ちゃんになろう!、はヒッポの標語の一つだが、骨盤おこしでもそれを言う。
考えてからの行動では間に合わない。反射的な判断でないと。「生きてる」ってそういうことだな。別に高度なスポーツとか音楽とかでなく、通常の美術系の作業は日常に近いと思うけど、「瞬間」の判断であることには違いない。
2010年10月 6日 本の場
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スザンヌ先生と酒井先生の講演
この間の日曜日はヒッポファミリークラブ主催の「人間はどのようにことばを獲得するのか?」というテーマの講演に行った。
スザンヌフリン先生と酒井邦嘉先生のお話に、パネルディスカッション。
酒井先生の科学のやりかたの話が興味深かった。MRIやfMRIの仕組み、人間の脳のマッピング(どの部位が何をしているのか)をどうやるか。これは文法の問題をやらせてみて、少しだけ問題の条件を変え、その時どのように脳の動いている部分が変わるのかのデータをとって言語を司る部分がどこかをこまかく特定していく、という地道な作業。データを蓄積し実証していくのが科学の態度なのだ。それは前に福岡伸一さんの本を読んだ時もきっちりと書かれていたこと(野口英世の失敗を実例として。「生物と無生物の間」だったかな)。
科学は、測定、観測する技術の進化とあいまって新たな世界の理解のしかたを示してくれる。
自分は科学を志すものでないが、興味は津々。いわば科学ファン。
と同時になぜ、科学をやろうとしなかったか、と言えば、と考えてみるに、自分にはそのような客観的実証がそんなに必要ないと思っているのではと思い当たる(いや、これは後付けの考えだな。下で書いてるように勉強がいやだったんだ。)体感したい。身体でさとりたい、のだ。
それで、科学的に実証されてないけど、経験的に「そう」とわかっている世界にも引かれる。漢方の世界とか。
科学は、実証のための数式やら理論を理解するだけのものを持たねば、理解できない。だが、このときの「理解」は私のもとめる体感とは科学者にとっては同じかもしれないが、自分としては違うもののような気がする。
ヒッポは、フーリエ変換から量子力学、DNAへと科学へのアプローチを独自のやり方で試みていて、そこに私はかなり引きつけられて(多言語のある日常(7カ国語ではなそう)、ことばと人間を自然科学する、をテーマとする団体なのだが、)いる。勉強がいやで高校から美術系へ舵を切ってしまった、私には、大学でやるような研究という(含む科学)ものにそこはかとないあこがれと引け目をもっている。私のような人もふらふらと引きつけられるものがヒッポにはある。(ヒッポは別に「自然科学する」と言わなくてもいいと思う。体感するために、科学とも芸術ともつきあっていく、という感じでよいのではとは思うが。)科学的理解は、進化して変わっていく。それは体感をするときの手がかりを提供してくれる。もちろん、目をくもらせる効果もある。どちらにせよ、懸命により新しい理解に挑戦する科学者の研究は、面白い。
スポーツを見る人のように、科学を見る。そしてできることを自分でやってみる。
スザンヌ先生の講演のこと全然書かなかった。。。それはまた。。。。。
2010年5月26日 本の場
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本当の納得
きのうのヒッポファミリーには本部のアッキーが来てくれた。
アメリカに留学しての英語が自然習得されていく時の感覚のことを少しだけ言ってくれて、
自分が赤ちゃんで日本語を自然習得していくときのことを自分ではおぼえていないけど、英語を自然習得した時は、意識がある状態だからそれがよくわかって面白かった、と。
あー、これを体験してみたいのだな、自分は、と思った。
それと、自分の教室で、人ってそれぞれ思考の回路が随分違う、という話をよくするのだが、いつも話している定番的話、子供の頃、弟に算数をうまく教えられなかった話をした。大人になって大分して弟本人から聞いたのだが、彼は、指を数えて足し算をしていて、親か先生かからやめなさい、と言われたのだそうだ。そうしたら、頭の中で想像の手指を数えるようになった、と。これを聞いて、私は教えられなかった理由がわかった、と思った。私は指を数えたことなどまったくなく、どうやって自分が計算をしているのか、自覚できてなかったので、弟の思考体系にコンタクトすることができなかったのだ。と、いつもここまで考えていた。
先週は、では自分はどうやって計算ができていたんだろう、と思った。そして多分、九九みたいに数字の組み合わせをおぼえたんじゃないか、と思った。1+2=3とか4+5=9とか。根拠はない。ただ、そうすると先生から丸をもらえる(つまり一般的に正しい)、と。
ううむ。弟の方が断然、論理的思考だと思う。
身体で悟ってない「正しさ」は、よくないものだ。
あーあ、かなりのパーセンテージでそういうよくないもので成り立っているのだ、自分。まあ、これからぽつぽつでもそういうことに気づいていくしか無い。(常識を疑う、っていうことだけど、そう言ってしまうと、なんとなく違うニュアンス)
腑に落ちる、という感じが無ければ。
でも、同じ話を繰り返しすることで、変化がある、ということが、いつもながら発見だったのはいいこと。そこで終わり、と思っていたことがそうではない、というのがうれしいことです。
2010年3月16日 本の場
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教室で、ステイの話
先週、マレーシアのクチンのホストが来日して、自宅に初ステイ。
今週は、製本教室の生徒にその話をしたりして、盛り上がる。
そうして、逆にみんなのいろいろな話を聞かせてもらう。みんなの体験も多岐にわたっていて、いろいろの海外体験とか、ステイとか、ステイの受け入れとか、様々の海外の人との体験をしているな〜と思う。あらためて。
2009年11月 6日 本の場
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科学
科学について考える。
今日はお盆などで2回休みだった太極拳と、そのあと「気について」の講義だった。
気の講義は(陰陽)五行説についての話が続いている。自然界のものやことをその性質によって、木火土金水の特徴になぞらえて、分類していく考え方。そしてそれぞれにある関係を観察、考察し対処する。自然界のことを分類していくのはそれほど、奇妙でなく、すんなりと納得できることが多い。春は木の気(のびて広がって行く性質)、夏は火の気(熱される)、長夏(土用)は土の気(最も安定している)、秋は金の気(凝集していき重くなる、充実する)、冬は水の気(氷らせて春までキープ)など。
しかし、人体の方となると、かなり新鮮な感覚がある。五臓(肝、心、脾、肺、腎)、五腑(胆、小腸、胃、大腸、膀胱)、五体(筋、血脈、筋肉、皮毛、骨)、五官(目、舌、唇、鼻、耳)五情(怒、喜、思、悲、恐)。それぞれ、木、火、土、金、水の順である。
この関係性は、今の時代では(というか、私のような素人には、と言った方がいいですね)ちょっと見抜けない。まあ、五臓はいいとして、それ以外はかなり意外な感じがする。
講義のあと、どうして、こういった関係性がわかったのですか、と、先生に聞いてみた。経験的知見。とのことだ。何千年もかかって蓄積された経験を考え、分類した結果、とのこと(私は何千年の間には、な〜んか知らないけどわかっちゃう天才が何人かいたんだと思うけど)。その知見は、現代の西洋医学から見ても正しい、とも言われた。西洋の医学(科学)はとてもスピーディ(多分この200年位?)に、理解に至った、とも。
そう。とてもスピーディに、というのは、「わかりやすい」ということなんだと思う。誰が見ても疑いなく、そう、という結論になることが証明できる、ということだ。
一方、上に書いたような五行説は、確かに分類ではあるのだがひとつひとつの語は、単なる指標にすぎず、内容を掴むには先生の話を何度も何度も聞いて(同じ角度からも別の角度からも)、しかも一つ一つ自分で感じとっていかなければならない。迂遠である。
しかし、本来、自然って「わかる」ものなのかどうか。
確か、アインシュタインの言葉が「科学者とは何か」(酒井邦嘉著)の中に引用されていて、「自然がこのように「わかる」ということが、不思議」というようなニュアンスだったと思う。ここが科学の凄さなんだろうな〜と思う。
一方、多分、陰陽五行説のようなものは、科学のようにわかろうとはしてないんだろうな、と想像する。ああでもない、こうでもない、と迂遠な言葉を使って、腑に落ちるまで時間のかかるわかり方が、なんとなく好ましい。
この言葉(西洋と中国)の気配の違いを、日本人として味わっていきたい。(ちなみに先生は北京生まれ、北京育ちの、日本人。ご両親が第二次大戦後抑留されて、こうなったらしい。)
2009年8月27日 本の場
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『野口体操 野口三千三+養老孟司』
太極拳でご一緒させていただいてる方から大分前にお借りしていたDVD。やっと日曜日に見ました。1991年に撮られたものなので、養老孟司さんがとても若いです。
野口三千三さんが、養老さんを評して
「自分ととても同じことを考えてる、だけど、それだけじゃなく、『どういうことだそれは。全然わからないぞ』ということも言っている。そこに激しく惹き付けられるので、敬意を持つ」
という意味のことを言っているのが印象に残りました。
・いろいろな人はみんな違う角度からものを見るから、人によって見え方が変わって、それが面白い。
・解剖学の本に骨の形は図示されているけど、重力の方向が書いてない。それと時間の経過が書いていない。
・漢字の元、甲骨文字に深く共感していて、体の感覚から文字が作られたというように、野口さんには理解されているようだった。
などのことが印象に残りました。
私が、大学生の時、野口先生の授業は有ったんです。
「こんにゃく体操」「野口体操」の名前は知っていました。受けてみよう、と思った記憶はないです。今このDVDを見ると、すごく面白くて興味をかき立てられます。大学当時、4年間、三木茂夫先生の「生物」の授業を受けつづけました。私には、三木先生と野口先生の感じ方はつながりがあると思われます。ただ、大学生当時は、自分が今よりもずーっと文字と視覚の人だったような感じがします。で、文字と視覚から「発生の不思議」を感じとって感動していたのが、三木先生の授業だったのでしょう。文字とヴィジュアルでなされた表現を感じ取って、それを自分の血肉にしていくには、実体験が不可欠だと思います。体ですることはすべて実体験ではあるのですが、視覚(書き出された文字を読み取ることも、広く視覚に含まれると思う)だけによると、体験は薄く、あらたな何かを作りだす原料としては、足りない感じがする。
「体操」(野口先生の言う体操、私にとっては太極拳も含む)や、「歌う」(好きな歌をカラオケで歌うことも、ヒッポファミリークラブで多言語のCDをまねしてしゃべる、つまり歌うことも)っていうことは、人為的に体を使って、「自分」を感じとっていく実験なんだと思う。
2009年5月12日 本の場
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ボルネオ、クチン
ヒッポファミリークラブの家族交流で、一家4人(その他にメンバー5人と)ボルネオのサラワク州の州都クチンに行ってきました。私たちの家族のホスト夫妻は、60代前半の中国系の方。日本にも、ビジネス、ホームステイ、で数回いらしたことがあります。
マレーシアの中国人は英語、中国語、マレーシア語は全部オッケーと言ってました。(行った学校によって、書くのが苦手というのはあるみたいですが。)
まさに日常が多言語でした。
ホスト夫妻どうしは中国語(一応、マンダリン、つまり北京語、すなわち共通語、ぷーとんふぁ)で話してます。親戚や友人達(日本にヒッポのステーをした人も何人もいました)を集めたパーティもしてくれたんですが、その時はいろいろな中国語(はっか、福建、マンダリン、海南、などなどらしい)が飛び交ってました。これはこの家の中だけの言葉だから、憶えない方はいいよ、なんていう言語も。マレーシア語は、お手伝いさん(インドネシア人)と話す時、お店に行った時など必要に応じて(でも、中国語の中にも、タッピー、とかマレーシア語が混じってました。ピュアなマンダリンを求めるならば、ここではないよ、ミクスチャーだから、とも言われました)。私たちとは主に英語。
というわけで、マンダリンをちょっとずつ言ってもらう感じで、マレーシア語を全く使いませんでした。なんとなーく、どうせなら中国語で、って思っちゃって。いつも聞こえてる言葉は中国語だったわけですし。
というわけで、俄然、中国語に興味津々。
ともかく、もっと、しゃべることが好きになりたい。そして、書くことも、もっと、好きになりたい。(しゃべるのが面白いから、赤ちゃんは、しゃべれるようになるんだう。。。)
じゃあ、しゃべる面白さって、何かな。
それは、相手の反応があって「へー、こんなふうに感じるんだ」って発見すること。自分が自分のしゃべったことを聞いて「へー、自分ってこう考えていたんだ〜」って発見すること、かな。
で、ホストとつたない英語でしゃべってると、すごくもどかしい。あんなこともこんなことも、言って、どんなふうに感じるかを聞いてみたいっっ!って思います。
ホストのリャウさんの感想文に「ヒッポのステーは短すぎる」ってあったのだけど、確かに。言葉がなじんでくるには時間がかかる。で、初交流だった私は、とりあえず交流が終わった、というよりも、やっと最初の最初の一歩を踏み出した、っていう感じ。
リャウさんの甥っ子のホイちゃんは、どんどん日本語で話しかけてきました。彼は車好きで日本の車の雑誌(改造とかカスタマイズに興味があるみたい)を読みたいというのが、日本語を勉強する動機だそうです。
自分の動機は漠然としてるけど、まあ、それもいいかな、と。
(太極拳や、気功の理論を知ってみたい、っていうのは中国語については、あるな)
ともかく、これからも、言葉で、じっくり遊んでいきたいです。製本や太極拳と同じように。
いやー、それにしても、リャウさん宅は豪邸でした〜。
ゲストルームが2〜3個もあって。
2009年5月 5日 本の場
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ボルネオ行きが迫ってきた
いよいよ、迫ってきました。
先週、ホームステイのホストもやっと決まりました。ずっと、マレーシア語を聞いたり歌ったりしていたのですが、ホストとのメールのやりとりで、ホスト夫妻は家庭では北京語を使ってることが判明。北京語もたくさん聞いてます、が、どうなることやら。
ともかく、違う言葉をしゃべる人の中に、その言葉を勉強しないで(赤ちゃんのように、聞いたり、歌ったり、遊んだり、しただけで)とびこんだら、どうなるの?っていうのを全身で存分に味わって、反応してみたいです。
言葉で論理を組み立てる、その元は、赤ちゃんが言葉を理解する、そこの時点で存在してると思う。なんとなくだけど、言葉と体の関係に興味があるんだな。人間ぽい、その感じに。
2009年4月21日 本の場
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音
音で伝えること。
今日、なんか引っかかってきたこと。3月に太極拳の中国の先生が来るのだが、そのことをうちの先生が話している時、套路の形に名前がそれぞれついているのだが、その意味、けっこう口伝で伝わっているので、表記した時いろいろ変化しているという話になった。それに加えて、気功の先生は、字の意味より音が大事、と言っていた。りゅうふんすーびー、と聞こえる六封四閉は、字面を見ると意味不明なんだが、それは音から別の漢字が当てられて定着してるものらしい。ああ、だから、いつもうちの先生は套路の漢字を日本語で読まないんだ、と納得した。
気功の先生の講義も4月から始まるので、是非受講したいと思うのだが、テキストはつかわない、とおっしゃっていた。書かれたものは、誤解をまねく、ということなのか。
文字はとても役にたつものだけど、全然伝わらないこともある。文字に過剰な期待をしてはいけない、ということだ。そして、口伝というものが大切にされるということもなんとなくわかる気がする。
赤ちゃんは文字以前に、音から言葉を知る。ヒッポの活動が、その点でも、意味深いという印象を持った。
文字、は、音楽で言ったら、楽譜にしかすぎないのかもしれない。(私は音楽をしないので、あんまりわかりませんが。印象としては。)
で、自分の本(製本の技法の本)なんかでは、伝えようと努力をするけど、やっぱもう無理、と思う。
扱う対象がもっと「意味」みたいなことだったらなんとかなるのかもしれないけど、「こんな感じ」は伝えるのは無理、実際にやってみせないと。
2009年2月18日 本の場
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『現代アジア移民」重松伸司 編著
マレーシア交流に行くにあたって検索ででてきて、目を通してみた。
むしろ、日本における、韓国、朝鮮の在日の人に対しての日本人自身の意識のことや、イスラエルにおける、非ヨーロッパ系のユダヤ人の問題などが興味を引く。そして、民族意識は、深く自分自身という個人が「誇り」をもつ根拠となっていて、劣等感や、優越感や、人間なら当然もつ感情の元になってる。それらをどうコントロールするかは、長く時間をかけて自分自身を改善、進歩させていかなければならない問題で、ともかく閉じこもっていては道はない。実際の現場に行って、いろんな人に会って、話をすることしかない、と感じる。
この本とは関係なく、思う事。個人の自信、国としての自信、今それが両方わりに満たされているのが、アメリカや西ヨーロッパではないだろうか。自信は余裕や優しさとともに横暴も生む。日本の現代は、激しい上下動があるな〜と感じる。
2009年2月17日 本の場
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ヒッポファミリークラブ
ヒッポファミリークラブに参加したのは2004年末だったと思う。「19カ国語を話そう」とか、最近は「多言語のある日常」をテーマワードとして活動している団体。
「人麻呂の暗号」という本を学生の時に読んだのがヒッポを知るきっかけ。この本の中では、確か、万葉がなで書かれた万葉集を音読(これをヒッポでは「歌う」という)するんだけど、それを現代の韓国語や中国語の音から昔の音を推定してやってみながら、隠された意味をさぐっていく、というようなスリリングでとっても楽しい試み。これをやってるトラスンスナショナル・カレッジ・オブ・レックス、という学校が、ヒッポファミリークラブの研究部門。当時、自分もそんなふうにやってみたいな〜、と、とても思った。
で、ヒッポ自体は、どういうことをやるところかというと、言葉を自然科学する、ということをかかげていて、「赤ちゃんはなぜ周りで使われてる言葉を、文字もなにも知らずに、しゃべれるようになるんだろう」という疑問や、多くの言葉が話されてる地域の人は、別の言葉の話されてる地域に言っても早くしゃべれるようになる(いわゆる自然習得)のは、なんで、みたいなところから始めて、ではそういう「多言語がある環境を人工的に作って、赤ちゃんのように口にだして「歌って」みたら、多言語が習得できるんじゃないか」という実験をしている。こう書くとすごく「人工的」な感じがするけど、実際にたくさんの人が集まって言葉をしゃべって感じたり、考えてしゃべりあっていると、その場自体が「人間という生き物の自然」と思える。
具体的には、いくつかのストーリーが19カ国語(まだ増えるようです)で演じられているcdを聞いてそれを口にだして真似るところからはじめて、真似たり自分のことをしゃべったり人の話を聞いたりするワークショップを毎週いろんな場所で行っているのが基本活動(ファミリーっていいます、これを)。そして、海外のいろいろな場所の家庭にステイする「交流」、逆に日本に来ている外国の人を自宅にステイしれもらう、「受け入れ」なんかも盛んに行う。
で、うちは上記のように自分の興味で長女を巻き込んで参加。一昨年からは妻と長男も巻き込むことに成功。同じ内容を19もの国の言葉で聞ける、というのは、それだけでもかなり面白い。
で、とうとうこんどのゴールデンウイークにマレーシアに家族4人で交流に行くことにした。むこうのお宅にステイするのだ。
今は、マレーシア語、英語、中国語、広東語などを聞いて、歌ってる。
でも、べつにヒッポに魔法があるわけではなく、ともかく何度でも繰り返し口に出していってみる、ということと、「言葉ってそもそもなんのためにあるんだっけ。そうそう、人に何かを説明したり、伝えたりしたいからだよね。」みたいなことを常に意識いているように自分をしておく(つまり心が人に対して開いてるってことだね、)というのがあるだけ、なんだけど。
自分は今やってることは「アート寄りな手製本」とでもいったものだが、それも言葉への興味から始まってる面もずいぶんある。ブログに「製本」のこと限定で書いてこうと思っても、な〜んか「描き割り」みたいな表面しかない自分な感じが強くてつまんなく感じるので、いろいろ書いてみようかな、と思って、ヒッポのことも書いてみようと思う。そう思うまでにずいぶんかかるのが私というキャラだ。
2009年2月 1日 本の場
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